(38)名前を教えてください
建物からの光が届かない中庭は暗く、とても静かでした。
でもフィルさんが選んだ道はレンガや石が敷き詰めてあって、とても歩きやすくなっていました。
だから、それほど足元ばかりに注意を払わずに済みます。
少し余裕ができると、周りの光景に目が向きました。
舞踏会が催されている巨大な中央棟を背に歩いていると、右手側に高い塔が見えます。軍部などがある東棟でしょう。
そして、私たちが向かっている先にも建物がありました。
それがおそらく、国王陛下の居住地区である北棟なのでしょう。
「……この中庭も、昼間はとてもきれいなんだよ」
気がつくと、フィルさんと並んで歩いていました。
相変わらず子供たちを両手で抱えた姿で、フィルさんは私に笑いかけました。
「明日、ゆっくり見てから帰るといいよ」
いつも通りのフィルさんの言葉です。
でも、いつもと違う表情をしていました。
「北棟もなかなかいいよ。古いから狭い階段が多くて、改築していないところは女性には不評だけどね。多分、君たちが泊まる部屋は新しい区画になるから、窓が大きくて明るいはずだ。朝になったら、中庭も見られると思う」
言葉を続けるフィルさんは、ずっと前を向いていました。
「欠点は、この子たちの部屋に近いことかな。延々と遊びに付き合わされたくなかったら、早めにどこかに逃げた方がいいね」
私はそっと後ろを見ました。
アルベス兄様は少し離れたところを歩いています。
私と目が合うと、苦笑いを浮かべてすぐに目を逸らしました。
「もしかしたら、この子たちの母親が君に会いたがるかもしれない。兄上もアルベスを気に入っていたし、明日も領地に帰してあげられないかもしれないな。……ごめんね」
私はフィルさんを見上げました。
フィルさんは相変わらず前を見ていて、代わりに双子たちが神妙な顔で私を見ていました。
そっくりのきれいな子供たち。
その双子を両腕に抱き上げて歩くフィルさん。
私にとっては、貴公子らしく着飾った姿より身近に感じます。
「フィルさん」
私が名前を呼ぶと、フィルさんの目が僅かに揺れました。
「フィルさんの本当の名前を聞いていい?」
「……今更かもしれないけれど、聞かない方がいいんじゃないかな」
頑固なほど前を見つめ、フィルさんは薄く笑いました。
でも顔は白く、目は全く笑っていません。
私はそんな顔を見上げ、ふうっと息を吐きました。
「フィルさんが言わなくても、アルベス兄様に聞くことになるだけよ。だからフィルさんから聞きたいの」
「……言いたくないんだ」
「フィルさん! 私だって子爵家の娘よ? 領地に引きこもってばかりだからひどい世間知らずでわかっていないことは多いけれど、全くの無知ではないのよ!」
私が声を荒らげると、やっとフィルさんが私を見てくれました。
「フィルさんの兄上様はロスフィール様。リダちゃんはリダリア様で、アルくんはアルロード様。そうでしょう?」
「あたり!」
「あ、リダ、しぃっ!」
リダちゃんが嬉しそうに言うと、アル君が慌てて注意をしています。
二人は自分の口に手を当て、また静かになりました。
「ねえ、フィルさん。名前を教えて」
「……もうわかっているだろう?」
「だからこそ、自分で言って欲しいのよ。……私はルシア・ラグーレン。ラグーレン子爵の妹です。あなたは?」
私がそう言うと、フィルさんは足を止めました。
私も足を止めました。
立ち止まった私たちの横を、アルベス兄様が通り過ぎました。そのまま少し歩いて、距離を置いて立ち止まります。
子供たち付きの女の人たちは、少し迷ったようですが、アルベス兄様の視線を受けて静かに通り過ぎて行きました。
護衛の騎士だけは、少し離れたところで足を止めたようでした。
「あなたの名前を教えてください」
私はもう一度言いました。
顔を見合わせた双子たちが、フィルさんの腕から降りようともがきました。
でもフィルさんは、腕に力を入れてそれを止めました。
子供の体温にすがるように一度顔を伏せ、それからゆっくりと顔を上げました。深く青い目からあらゆる感情が抜け、まっすぐ私を見つめました。
「……僕の名前はフィルオード。先王クローデンの第二王子で、現王ロスフィールの弟。第三位王位継承者だ」
極めて美しい発音の、とてもはっきりとした声でした。
予想通りの言葉でした。
でも、全身を刃に貫かれるような衝撃がありました。
十分に覚悟していたはずなのに、私の足は急に震え始めていました。声も出ません。顔もきっと強張っているでしょう。
フィルさんは……フィルオード殿下は優しく微笑み、アルベス兄様を振り返りました。
「アルベス。僕は先に行く」
「……わかった」
お兄様は、短くそう答えます。
フィルオード殿下は、もう私を見ていませんでした。
暗い中でも私が難なく歩ける速さではなく、本来の歩幅で歩いて行きました。あっという間に子供たちを抱いた姿は遠のき、見えなくなりました。
「ルシア」
立ち尽くして動けない私に、お兄様が声をかけてくれました。
「ルシア。……大丈夫か?」
ええ、大丈夫。
そう答えたいのに、声は出ませんでした。
アルベス兄様はそんな私を見つめ、ゆっくりと抱き寄せてくれました。
「ルシア。ごめん。……お前を泣かせるつもりはなかったんだ」
お兄様の大きな手が、私の頭をそっと撫でてくれました。
心地よい手の動きに私はお兄様の肩に顔を寄せ……自分が涙を流していたことを知りました。




