(28)舞踏会の前日
舞踏会の日は、あっという間にやってきてしまいました。
水仕事や畑仕事も控えてみましたが、爪の形は既にきれいではないし、指もまだ少し荒れています。日焼けもした後なので、肌はほんのりと赤いまま。
一応、自分でできる範囲で肌のお手入れをしてみましたが、一週間だけではやはり不十分でしょう。
王都へ向かう馬車の中でも、まだいろいろ気になってしまって、何度もため息をついてしまいました。
幸い、アルベス兄様は馬を歩かせていましたから、ため息を聞かれていませんでした。もし見られていたら、舞踏会は取りやめだと騒いでいたかもしれません。
自分の肌や手が気になって仕方がないくらい、私は舞踏会を楽しみにしていました。
フィルさんは素の私を知っています。何をしても笑って許してくれるでしょう。
だから、思い切りダンスを楽しんでみたいです。私、アルベス兄様としか本気で踊ったことがありませんから。
……と上々の気分だったのですが。
急激に自信がなくなってしまいました。
「……ここが、フィルさんの家なの?」
馬車が止まったのは、立派な屋敷でした。
高位貴族が王都に持つ屋敷としては、大きくはないかもしれません。オーフェルス伯爵家の屋敷よりかなり小さいでしょうか。
豪華さを競うようなところもなく、外見はやや古めで地味にも見えます。
でも、間違いなくラグーレン子爵家の今の家より大きくて立派です。
「あいつの母親の持ち家だったらしい。今はフィルの家だ。ただ、以前からほとんど住んでいないんだよな」
もったいないよな。
アルベス兄様はそう言って笑いました。
……そうですね。数泊だけでもラグーレン家に来ていた人ですからね。
こんな立派な屋敷があるのに、我が家の床がいいなんて。
本当に変わった人です。
「ラグーレン子爵様。ルシア様。お久しぶりでございます」
馬車を降り立ったまま、呆然としていたらティアナさんが笑顔で話しかけてくれました。
ただし、あの笑顔は「早く中に入れ」という催促でもあります。
私は大人しく従うことにしました。
お茶をいただいて、一息ついて。
その後で案内された部屋には、とても美しいドレスがありました。
「ご用意したのはこのドレスですが、いかがでしょうか?」
「……素敵です」
ティアナさんが心配そうに聞いてくれましたが、私はそれしか言えませんでした。
ごくわずかに青みがかった淡い緑色で、細かい刺繍が小さな花模様を作っていました。
フィルさんのお母様のドレスだそうで、最近の流行りのものとは少し形が違います。
でも、もともと古風なデザインだったおかげか、私にはとても美しく見えます。絵本の中のお姫様たちが着ているドレスに似ているのも、私の心を捉えていました。
「では、装飾品はこのような感じで揃えていますが」
ネックレスとイヤリングも見せてもらいました。
ダンスをすることを考慮してくれたのでしょうか。どちらも以前お借りしたものより軽そうで、宝石も小さめです。
でも、十分すぎるくらいに高価そうに見えました。
「……ティアナさんにお任せします」
「かしこまりました」
私の性格を把握しているティアナさんは、にっこりと笑ってくれました。
それから、ふとアルベス兄様を見ました。
「ラグーレン子爵様にも、何かご用意しましょうか?」
「いや、俺は着飾る意味はないので、いつも通りで行きますよ。いろいろ顔を売りたいから、普段と差が大きすぎると好ましくないので」
「なるほど。では、お手入れだけさせていただきますね」
ティアナさんはそう言って、お兄様のカバンを持って行きました。
私とアルベス兄様は、最初に通された部屋に戻ってお茶のおかわりをしました。
先ほどとは違う香りのお茶を飲み、私はふうっと息を吐きました。
屋敷の中は、外見と同様、少し古風な作りをしていました。
内装も少し前の流行りのものが多いようです。オーフェルス伯爵家で時代遅れと笑われていたものと似た形のものもありました。
「ここは、全然変わらないな」
お兄様も内装を見ていたようです。
私の視線を受けて、カーテンを指さしました。
「俺が初めて泊めてもらったのは十年近く前だが、あのカーテンはその頃のままだ。……さっき確かめたが、あの裏側には悪ノリした俺たちが切った跡が残っている。弁償すると言ったんだが、母君は笑って許してくれたんだ」
……お兄様。
人様の屋敷でいったい何をやったんですか。
流石に呆れ顔になってしまいましたが、アルベス兄様は懐かしそうな顔をしています。
でも、その顔がふと曇りました。
「あの方が亡くなって、もう六年……いや七年か。それからこの屋敷は全く変わっていないはずだ。フィルは何一つ変えようとしていない。思い出があるのは、時としてつらいよな」
「フィルさんは……その時から変わったの?」
私が思い切ってそう聞くと、アルベス兄様は一瞬考え込んでから、ゆっくりと口を開きました。
「うちに来ている連中から、何か聞き出したんだな?」
「……その、フィルさんのお母様が毒殺されたことと、その後にお父様が倒れられたことだけです」
「そうか。……父君も結局、三年前に亡くなった。まあ、あいつもいろいろ大変なんだよ」
私が知らない大変なことも、もっといろいろあったのでしょう。
今にして思えば、暗い目をして私たちの家に来たこともありましたから。
「しかし惜しいな。このままでは、あいつは結婚してもここには住まないぞ。老後の隠居場所になるまで放置されるんだろうな」
え、もしかして他にも屋敷があるの?
……フィルさん、本当にすごい貴族なんですね。
「俺が金持ちだったらここを借りるんだが。王宮との出入りにも便利だし、商人との取引場所にもできる。本当にいい家だよ」
もっと金があればなぁ。
お兄様は残念そうにつぶやいています。
……やはり、王都と家との往復は大変なんですね。
浮いている私の持参金で、ここを借りることができればいいのですが……さすがに無理ですよね……。
しばらく、兄妹そろってぼんやりしてしまったようです。
夕食の準備ができたことを告げに戻ってきたティアナさんに、眉を大きく動かされてしまいました。




