(25)過去と迷い
その後、フィルさんはすっかり元気になりました。
一通りの仕事をしてくれた後は、いつも通りに床で寝ています。
いつも思うのですが、枕なしで頭は痛くないのでしょうか。
あ、ちょうど農作業担当の騎士の一人、バーロイさんが来ましたね。
手伝いをお願いしてみましょう。
「フィルさんに枕をあげようと思うんですが、少し、頭を持ち上げてもらえますか?」
バーロイさんに言うと、大きな目をさらに大きく見開かれた上に、大袈裟なほど首を横に振られてしまいました。
どういうことなのか聞こうとしましたが、バーロイさんはしぃっと指を口に当てて、少し離れた場所まで私を引っ張って行きました。
家の外に出て、声が聞こえない距離と判断したのでしょう。やっとバーロイさんは大きく息を吐きました。
「失礼。だが、あの距離ではあの人が起きてしまうんでね」
そんなに?
確かに、寝ているように見えても声を聞いていたりしていますが。
私が首を傾げると、バーロイさんは苦笑いをしました。
「知ってますか? あの人があんなに無防備に寝ている姿なんて、我々は見たことがないんですよ」
「そうなんですか?」
「俺も第三軍……北部にいますが、北部ではあの人は軍装を解いた姿をほとんど見せません。いつも隙がないんです。たとえ酒が入っても、どんな美人に酌をされても気を抜かない。いや、そもそも見慣れない人間が注いだものは、絶対に飲まないんですよ。何を飲まされるか分かりませんからね」
そこまで、なんですか?
信じられません。私が知っているフィルさんとは別人のようです。
「俺たちはアルベスの同期ですから、若い頃のあの人も知ってます。何も知らなかったり、怖いものなしだったりで、あの人も交えてバカをやりましたよ。少し調子に乗りすぎて大バカをやって、軍団長に全員まとめて殴られたこともあったなぁ」
バーロイさんは懐かしそうに、少し遠い目をしました。
何をしたかは聞きませんが、軍団長様レベルが直接手を出すなんて、よほどの事をやらかしたのでしょうか。
それとも……。
「でも、そんな楽しい時期はすぐに終わりましたよ。……あの人の母親が毒殺された上に、父親まで倒れたりしたんでね。すっかり目付きが変わりました」
「そう、だったのですか」
今にして思えば、アルベス兄様との会話の中に、ご両親の話が出てきたことはありませんでした。
いつも兄上様で、時々、姉上様も出てきました。
最近は兄嫁とか甥とか姪の話が出てくるようになりましたが、それ以外の家族の話は聞いたことがありません。
私がいない時に話しているのかな、私たちに両親がいないから、気を遣って話題にしないのかな、くらいに思っていました。
でも……そういうことだったのですね。
私、全然知りませんでした。
「……フィルさんの家族の話、もっと聞いていいですか?」
「いやいや、本当に申し訳ないんだが、詳しい話は直接聞いてください! 俺たちの口からは、ちょっと」
バーロイさんは慌てて首を振りました。
でも私の顔を見て、少しだけ表情を緩めました。
「まあ、俺たちの前では今でもバカな話はしますよ。ここを紹介されたのも、俺たちが立候補できたのも、そのおかげです。一応、信用できる人間とみなしてもらっているみたいなんで。……でも、寝ているあの人にうっかり近付くと、俺たちなら間違いなく剣を抜かれます。だから俺たちは全く役に立てないんです。申し訳ない!」
そこまで謝らないでください。
お願いしようとした私が軽はずみでした。
私もバーロイさんに謝って、家の中へと戻りました。
フィルさんはまだ寝ていました。
枕は諦めて、私は自分の部屋へと戻りました。
きれいに洗った替え襟をドレスにつけるためですが、針を持つ手はいつの間にか止まっていました。
……最近、私は迷っています。
私は何も知らないまま、あるいは意識的に何も見ず何も聞かず何も気付かないようにして、フィルさんをお兄様の親友として迎え、接してきました。でも、今のままで本当に良いのでしょうか。
フィルさんも、アルベス兄様も、私には何も知らないままでいて欲しいようですが。
うっかり気に障ることをしてしまうかもしれないし、うっかりフィルさんの平穏を乱すことを外でしてしまうかもしれない。
それを防ぐために、多少の事情は知っておくべきではないでしょうか。
忘れたことになっている昨夜の話によれば、フィルさんは一年以内には必ず結婚するはずです。
ラグーレン家での、のんびりした日々も、長くて一年。
今回のお休みは三日間だそうです。
その後は、あと何回ここに来てくれるでしょうか。本来の勤務地である北部へと戻ったら、次はいつ会えるかわかりません。
床で昼寝をしているフィルさんを見るのは、もしかしたら両手の指で収まるくらいかもしれないのです。
フィルさんは……ここに来なくなったら、どこでくつろぐのでしょう。
「……いやいや、そんなに悲観しなくても、もしかしたら新しい家族が癒してくれるかもしれないじゃない?」
貴族の結婚であろうと、幸せな家族はできるはずです。
兄上様もフィルさんのことを考えてくれるはずですから、優しくて笑顔が明るくて、でも実は気の強いご令嬢を探し出してくれるかもしれません。
子供が生まれれば、口では文句を言いながら一緒に全力で遊んでいるような父親になるでしょう。
そういう姿は、簡単に想像できます。
でも……実現しても、私はそれを見ることはないのでしょう。
「あの部屋も、いらなくなっちゃうのね」
フィルさん専用の客室も、片付ける日が来るのでしょうか。
少しずつ増えていった替えの服とか、フィルさんが勝手に持ち込んだ小さな絵とか、ここに来るたびに修理をしていた古い椅子とか、そういうものも不要になるのでしょうか。
……いなくなった人の部屋を片付けるのは、嫌いです。
ぽっかりと空いてしまった空間に気付いてしまう、あの瞬間が嫌いです。
私は……。
「しっかりして! 先のことを勝手に思い悩むより、今日と明日のお料理のことを考えるのよ!」
パン、と頬を両手で叩きました。
ピリリとした痛みが、私を現実に戻します。これからすべき仕事の内容も頭に戻ってきます。ぼんやりしている暇はありません。
気合を入れたおかげか、針はスムーズに動くようになりました。




