(24)フィルの事情
今日のフィルさんは、金製のイヤーカフをつけていました。
これをつけたままということは、騎士としてではなく、本来のフィルさんとして長い時間を過ごしていたようですね。
多分、ここに来る前に外すのを忘れてしまったのでしょう。
見るべきではないと思うのに、イヤーカフに刻まれている紋様に目が行きます。
男性用の装飾品にしては珍しく、花の形に見えました。
てっきり家紋のように動物の姿を象っていると思っていたので、ついじっくりと見てしまいます。さらによく見たくなって、私は顔を近付けようとしました。
「……ルシアちゃん、寝込みを襲われると理性が心許ないんだけど」
「お、起きていたの!?」
慌てて体を離すと、フィルさんがパチリと青い目を開けました。
「ごめん。さすがに、この近さは起きてしまうんだ」
「起きたのなら目を開けてよ。ごはんをどうするか、聞きたかったんだから!」
「……ああ、そんなこと言ってたな」
やっぱり、最初から聞こえていたんじゃないですか!
じろりと睨んだのに、フィルさんは困ったような顔をしただけで目を逸らし、一動作で立ち上がりました。
手早く毛布をたたみ、小脇に抱えて軽く伸びをします。それから私を振り返りました。
「食事はいらないよ。兄上に捕まっている間、姉上と兄嫁にずっと食わされていたんだ。僕はもう育ち盛りの十代じゃないんだけどな」
「飲み物は?」
「あとで水だけもらうよ」
フィルさんは小さく欠伸をしました。
とても眠そうです。
声は聞こえていても、眠っていたのは本当だったようですね。
「フィルさん」
「ん?」
「フィルさんは……結婚するの?」
首をほぐしていたフィルさんは動きを止め、少し遅れて振り返りました。
「アルベスから聞いたの?」
「ええ。聞きたくないと言ったのに、ずっと聞かされたって」
「そうか。……まいったな。君たちの声は気が緩みすぎるな。全く気付いていなかった」
すっかり眠気が消えたフィルさんは、毛布を部屋の隅に片付けると、どさりと椅子に腰を下ろしました。
しばらく考え込んでいましたが、私が立ったままなのに気付いて、近くの椅子を引いてくれました。
「座ってよ」
私が素直に座ると、乱れていた銀髪を手でかきあげ、深いため息をつきました。
「……僕はまだ結婚したくない。少なくとも、兄上に勧められる相手とはね。でも、いつまでも一人で気楽に生きることは許されないだろう。僕が独り身だと、それはそれでおかしな野心を持つ連中が出てしまうんだ。……面倒だよ」
フィルさんは私を見ていません。
ぼんやりと暖炉の炎を見ていました。
「今まで婚約者がいなかったことが奇跡だったんだ。だが、おそらく近いうちに……一年以内に結婚するだろうな。まあ、それはかまわない。僕だって生まれた家の意味はわかっている。でも……」
フィルさんは虚ろに微笑みました。
「……結婚したら、ここには来られなくなる。それがつらいな」
その声があまりにも寂しそうだったから、私は思わず身を乗り出しました。
「お兄様はきっと歓迎するわよ。私もフィルさんの奥様や子供たちなら歓迎するわ!」
「ありがとう。でもそれは難しいし、君たちを権力闘争に巻き込みたくない。……本当は今も来るべきではないんだ。頭ではわかっているが、ここは居心地がいいし、それに」
言葉の途中で、唐突に口を閉じました。
言ってはいけないことを、口走りそうになったかのように。
理性でそれを封じ込めたように。
フィルさんはまだ炎を見ていました。
やがて、フィルさんは立ち上がりました。
振り返った時には、もういつものフィルさんに戻っていました。
「ごめん。やっぱり疲れているみたいだ。もう寝るよ! 頭を冷やしたいから、井戸の水を借りるね」
「そうだな、水浴びはいいぞ。頭がすっきりする」
戸口から、声がしました。
布を肩にかけ、まだ少し髪から水を滴らせているアルベス兄様です。
一見のんびりと戸口に手をかけていましたが、その目は真っ直ぐにフィルさんを見ていました。
……いつからそこにいたのでしょうか。
「ルシア。もうお前は寝なさい。あとは俺たちで片付ける」
「え、でも」
「うん、ルシアちゃんは休んでいいよ。……それとも、半裸で水を滴らせる僕を鑑賞する? 体には自信あるから、ここに残ってもらってもいいんだけど」
「あとはお願いね。お休みなさい!」
私はくるりとフィルさんに背を向けました。
お兄様の横を通り抜けると、アルベス兄様はため息をついてから中へ入って行きました。
「ルシアちゃん。昨日はごめん!」
翌朝、部屋を出た途端にフィルさんに謝られてしまいました。
まだ薄暗い廊下で、ドアを開けた途端にこんなこと言われたらさすがに驚きます。
眠気が一気に消えましたが、胸は激しくドキドキしてしまいました。
「家族にいろいろ言われて、少しおかしくなっていたみたいだ。変なことまで話してしまった。本当にごめん!」
「えっと……私、昨日の話はよく覚えていないのよね。それに、いつもとそんなに変わらなかったわよ? ……たぶん」
苦しいとは思いつつ、私はあえて嘘をつきました。
人間、生きていると色々ありますよね。
フィルさんだって、胸の中に溜め込んだものを吐き出すことは必要です。その相手がアルベス兄様や私しかいないのなら、私たちは黙って聞き流してあげるべきだと思います。
その代わり、すぐに忘れますから。
私はフィルさんを見上げました。
少しうつむいていて、少し元気がないように見えます。
よく見ると、目の下にクマがありました。
「もしかして眠れなかったの? 繊細な人だったのね」
そう言って笑うと、フィルさんもほんの少しだけ笑いました。
「僕だって神経質になることもあるんだよ?」
「それで、よく騎士をやっているわね」
「戦闘に関しては図太いんだ。たぶん、軍の連中は僕がこんな顔をするなんて想像したこともないと思うよ」
……そういうものなんですか?
では、その図太さを早く取り戻して、立ち直ってもらいましょう。
「珍しく朝から起きてるのなら、水汲みをお願いしてもいい?」
「御心のままに。我が姫」
フィルさんは胸に手を当て、恭しく礼をしました。
さすが、現役の騎士。
まるで王女様になった気分ですね。




