(22)出来心
ぽすん、と肩に頭が乗りました。
ずしりと重く、首筋にフィルさんの銀髪がかかって……なんだかくすぐったいです。
「……ねえ、ルシアちゃん」
肩に、低い声がかかりました。
「君は、僕のこと……どのくらい知っている?」
え? フィルさんのこと?
混乱しながら、私は一生懸命に考えました。
「そ、それは……シチューは塩味のものが好きとか、床でごろごろするのが好きとか、放置していたらずっと寝ているとか、そう言うこと?」
「ああ、うん、そう言うのはとても嬉しいけど」
フィルさんは笑ったようです。
でも、私を包み込む腕は、またさらに力がこもりました。
苦しくはないけれど、ますます落ち着かなくて、私は慌てて言葉を続けました。
「えっと、そうね、フィルさんはアルベス兄様が騎士だった頃の同僚、とか?」
「うん、そんな感じの話だよ。でも、アルベスは同僚というより、僕の部下だったんだ。あいつが新兵だった時、僕はもう少し高い地位にいたんだよ」
「そうだったの? もしかして、年齢もお兄様より上なの?」
「うん。ちょっとだけ、ね」
フィルさんは頷きました。
首に触れている銀髪も動きました。
……あの、そろそろ離れて欲しいんですが……。
「でも、僕があいつの上官だったのは、年齢だけが理由じゃない。僕は……」
言葉が途切れ、肩にため息が触れました。
「……ああ、言いたくないなぁ。ルシアちゃんには言いたくない」
それだけつぶやいて、フィルさんは黙り込んでしまいました。
馬車はゆっくりと走っていました。
身動きできないので確かめられませんが、今、どの辺りを進んでいるのでしょうか。少しスピードが落ちているような……。
「君の目が変わってしまったら……僕は死にたくなる」
ガタンと大きな揺れの中で、フィルさんがぽつりとつぶやきました。
本当に独り言なのかもしれません。今のフィルさんは、とても無防備ですから。
私は拘束されていない手をそっと動かしました。
縋り付くように包み込んでくるフィルさんの背中を、ぽんぽんと叩きました。
「言いたくないのなら、私は聞かないわよ。というか、聞きたくないです。アルベス兄様がいつも言っているでしょう? 複雑な話に関わらなかったら、いつも通りで済むって」
「ルシアちゃん」
「フィルさんはアルベス兄様の友人で、時々やってくるお客様で、床でのんびりくつろぐことが好きな怠け者です。それで十分よ」
ゆっくりとそう言うと、フィルさんの腕が僅かに動きました。
でも、太い腕は外れません。
どうしたものかと考えていると、ティアナさんがちらりと私たちを見ました。
何か言いたそうな顔をしています。……当たり前ですよね。こんな光景、ちょっと目に余りますよね!
「ねえ、フィルさん。あの、そろそろ離れてくれる?」
「離したくない。ずっとこうしていたい。……いや、もうこのままでいいんじゃないか? なんで僕がわがままを言ったらいけないんだ? たまにはごり押ししても許されるんじゃないのか?」
私を包み込む腕に、また力がこもりました。
そろそろ苦しくなりそう……と不安になってきた時、フィルさんの鼻先がするりと私の首に触れました。
「え、ちょっと、フィルさんっ!?」
「ごめん、ルシアちゃん。……ちょっと変なことをするかも」
「フィルさんっ! く、くすぐったいですっ!」
よくわからない怯えに襲われ、大きな体を押しのけようとした時。
「フィル様。時間切れでございます」
ティアナさんの静かな声が聞こえました。
そして、馬車の扉が開きました。
「……おい、お前は何をやっているんだ」
低い声が聞こえました。
こんなに殺気のこもっているのは初めて聞きました。
でも、よく聞き慣れた声です。
私が顔を向けようともがく前に、フィルさんがガバリと離れていました。
「アルベス」
いつの間にか、馬車は止まっていました。
そして、開いた扉の向こうに、鬼のような形相のアルベス兄様がいました。
「もう終わったのか? 早かったな」
「ああ。お前に借りた新入りのおかげで、これ以上望めないくらい早く終わった。……早く終わってよかったよ。お前の暴走を防げたのだからなっ!」
アルベス兄様はフィルさんの胸ぐらを掴んだかと思うと、あっという間に馬車から引っ張り下ろしていました。
フィルさんも抵抗する気はなかったようです。
ひきつった顔をしながら、無抵抗でした。
「次は殺す、と言っておいたよな?」
「いや、その時とは状況が違うだろう!」
「言い訳はそれだけかっ!」
「ただの出来心だよ! ルシアちゃんが可愛すぎて、ちょっと理性が飛びそうになっただけだっ!」
「はぁっ? それで言い訳のつもりかっ!」
「言い訳ではない! ただの懺悔だっ!」
……ここは、王都の大通りの辺りですね。
突然始まった怒鳴り合いに、通行人たちが驚いた顔で足を止めています。
二人とも剣を帯びていますから、警備隊に通報されてしまうかも……あ、それはないかな。今日の二人は、どこから見ても貴族とわかる服装ですから。
それでも、お兄様の殺気は本物ですし、フィルさんも今の所は無抵抗ですが、何かあれば反射的に自衛行動をするはずです。
これ以上、騒ぎを大きくするべきではありませんね。
貴族同士の紛争として王国軍の騎士隊が出てきてしまったら、二人にとって気まずいどころではないはずです。
私はドレスの裾に注意しながら馬車から降り、殺気立っているアルベス兄様の腕をぽんぽんと叩きました。
「アルベス兄様。どうか落ち着いてください」
「こいつをかばう必要はない!」
「だから、落ち着いて。ラグーレン子爵として、恥ずべき行いは避けてください、と申し上げているんです」
そっと囁くと、アルベス兄様はぐっと口を閉じました。
目だけで周囲を見渡し、舌打ちをしてフィルさんを離しました。




