(21)戦いの後の解放感
「やっと終わったね。ご苦労様」
乗り込んだ馬車が動き出してから、フィルさんは笑顔で労ってくれました
先ほどの威圧感は完全に消え、私がよく知っているフィルさんの顔になっています。
きれいに整えていた銀髪も、馬車の扉を閉めて座った途端にぐしゃぐしゃに乱していました。
表情だけを見ると、ラグーレン家の床でのんびり寝そべっている時のフィルさんです。
でも、今日のフィルさんはとても美麗な姿をしています。
さり気なく着こなしている服は、多分アルベス兄様が持っている一番上等の服よりも高価でしょう。
そういう高価な服を、気負いなく着こなしていました。
襟元に小さな飾りが付いていますが、私がつけているイヤリングとよく似た、極めて美しい真珠がついています。
それに……。
私はフィルさんの耳を見ました。
今は透けるように美しい銀髪に半分隠れていますが、金細工の上に青い宝石が輝くイヤーカフがついています。
その飾りに気付いたのは、つい先ほどです。
銀髪そのものが華やかだし、衣装も上質だし、あまりにも自然につけているので全く気付いていませんでした。
でも一度気付いてしまうと、かなり豪華な作りが気になりました。
金細工は、たぶん何かの紋様を示しているはずです。
何もない時なら、ただきれいだなと思うだけだったでしょう。
でも、オーフェルス伯爵たちに見せたあの顔は……あの威圧感は、フィルさんが普通の貴族ではないことを示していました。
イヤーカフの紋様は、たぶんフィルさんの本当の姿に付属するものなのでしょう。
……でも。
私はフィルさんを見つめました。
フィルさんは微笑みながら、私が何か言うのを待っています。いつも通りの姿です。
それなのに、どこかいつもと違います。
私の反応を見逃すまいとするような、私の思惑を探ろうとするような、そんなごくかすかな緊張がありました。
私は目を閉じて、ゆっくりと呼吸をしました。
……フィルさんの本当の姿なんて、こだわる必要があるのでしょうか。
フィルさんはアルベス兄様の友人で、ふらりとやってくるお客様で、床であろうと地面であろうと寝転がって、私が作る質素なシチューを美味しそうに食べてくれる人です。
今回は、そういう「いつもの枠」を超えて助けてくれました。
それで私が勝手に萎縮してしまうのは、何かが間違っています。
目を開けると、フィルさんがまだ私を見ていました。
ティアナさんが何も見ていないふりをしてくれるくらい、私を見つめていました。
私は手を伸ばし、フィルさんの鼻先を指で軽く弾きました。
「……っ!」
「フィルさんもお疲れ様。本当に助かったわ」
「……あ、ああ、うん」
フィルさんは驚いた顔をしていました。
貼り付いたような微笑みは、もうありません。
だから、私はにっこりと笑いました。
「フィルさん、この後に何か用があるの?」
「いや、今日は何もないよ。絶対に仕事は入れない。君を軽く散歩に誘って、何かつまんで、アルベスを拾ってラグーレン領まで送り届けるつもりだよ」
「なんだ、そうだったの? 伯爵様にあんな言い方をするから、本当はまだお仕事があるのかと心配しちゃった」
「勝手に君の用事を作ってしまってごめん。宴に出たかった?」
「まさか! 絶対に胃が痛くなりそうだったから、ああ言ってもらえて助かったわ!」
心からそう言って、ふとあの時のオーフェルス伯爵家の父子の顔を思い出してしまいました。
急に笑い出した私に、フィルさんは不審そうな目を向けました。
「どうしたの?」
「いや、だって……オーフェルス伯爵に、あんなに気を遣ってもらえたことはなかったから。あの方があんなに愛想のいい顔ができるなんて、全然知らなかったわ! ゴルマン様も、あんなに頭を深々と下げる礼ができたのね!」
「……うん、まあ、彼らも王宮に集う貴族だし、ね」
「あー、なんだかスッキリした! 私、婚約破棄してもらって本当に良かったわ! あの人たちと一緒に生活するなんて、絶対にできなかったわよ!」
心の中では何度もつぶやいていました。
うっかり独り言で漏らしたこともありました。
でも、声に出してはっきり言ってしまうと、ゴルマン様と結婚しないで済んだことは、本当に素晴らしいことなのだとしみじみと実感します。
ティアナさんが呆れた視線を向けてきましたが、気にしません!
一人で笑っていると、フィルさんが僅かに首を傾げました。
それからティアナさんに目を向けました。
「ティアナ。少し外を見ていてくれるか?」
「申し訳ありませんが、私はルシア様の付き添いでございます」
「そこをなんとか。少しだけでいいんだ」
「……少しだけですよ?」
ティアナさんはそう言うと、ぴたりと窓の近くへと寄って座り直しました。
そして、背を向けるように窓の外を見つめました。
何が起こっているのでしょう。
戸惑っていると、フィルさんが私の側の座面に移ってきました。
「え?」
「ごめん。ルシアちゃん。絶対に変なことはしないから。……少しの間だけでいいから、じっとしていてくれる?」
「じっとしてって、……え、ええっ?!」
突然、フィルさんが私の体に腕を回しました。
驚いている間に、腕にすっぽりと囲われ、広い胸に体が押し付けられていました。
反射的に身じろぎすると背中の腕に力が入って、ますます包み込まれてしまいました。
混乱する頭を、フィルさんの甘い香りがさらに乱しました。