(2)兄の怒り
覚悟した衝撃は、襲ってきませんでした。
「ゴルマン卿」
振り上げたゴルマン様の手を、アルベス兄様が掴んでいました。
男性としては身長は平均くらいのゴルマン様ですから、背の高いお兄様が手を掴む距離に立つと見上げる形になってしまいます。
ゴルマン様は苛立たしそうに振り払おうとしているようですが、王国軍の騎士だったお兄様の握力に叶うはずがありません。
諦めたのか、ゴルマン様は握っていた手を開いて私から離れました。
「離せ!」
「失礼しました」
アルベス兄様は静かに手を離しました。でも私を守るように、ゴルマン様との間に立っています。
ゴルマン様は衣服を整え、忌々しそうに私たちを睨みつけました。
「ふん。これ以上ここにいるのは不快だな。王宮に提出する書類はすでに用意できている。子爵の署名をいただきたい」
「……わかりました」
差し出された書類に、お兄様が署名をしました。
いつものお兄様の字より乱暴で、筆圧のせいか太い文字でした。
「これで用件は全て済んだ。この書類は我がオーフェルス伯爵家から出しておいてやる。ラグーレン子爵は雑用で忙しいようだからな!」
「お心遣い、感謝します」
お兄様は恭しい礼をしました。
でも礼をしたまま、目を上げてゴルマン様を睨みつけました。
その姿は、子爵というより王国軍の騎士だった頃のお兄様を彷彿とさせました。
押し殺した殺気に怯んだのでしょう。それ以上私たちを侮辱する言葉は口にせず、ゴルマン様は足早に出て行ってしまいました。
馬車が去るのを窓からこっそりと見送り、私は重い足を引きずりながら応接間に戻りました。
お兄様は、まだそこに立ち尽くしていました。
「アルベス兄様」
そっと声をかけると、お兄様はのろのろと私を見てくれました。いつものように笑おうとしてくれましたが、顔が苦しげに歪んだだけでした。
「……ごめんな。ルシア。お前には幸せになって欲しかったのに」
「結婚持参金の話なら、仕方がないと思います」
「でも、やはりやってはいけないことだった。今年中に全額を揃えるのが苦しくなって、オーフェルス伯爵に相談してしまったんだ。伯爵も理解を示してくれたんだが……」
アルベス兄様は下を向いて、深いため息をつきました。
「……本当は、ぎりぎり準備できないことはなかったんだ。少しは蓄えはあるし、まだ売るものも残っていたのに」
「お兄様。うちの財政状況は私もよく知っているわよ。蓄えと言っても夏と冬に備えての資金でしょう? それに売れるものなんて、もう何も……まさか、お兄様の剣を売るつもりだったの?」
お兄様は目を逸らして、答えませんでした。どうやら、本当に剣を売ることを考えたようです。
それこそ、あり得ません。
私が婚約破棄されたって、結婚が当面できないだけで済みます。
でもお兄様の剣は、手放してしまったらもう二度と手に入りません。
あの素晴らしい剣は、アルベス兄様が王国軍の騎士になった時に、お父様がお母様の形見を売って用意してくれたものです。
お父様が亡くなって、傾いた領地を守るためにお兄様は騎士をやめました。
使用人がほとんどいない生活で、治安維持や領民同士の紛争の解決といった通常の領主の仕事をこなす一方で、農夫に混じって畑を耕し、水路を整え、王宮に提出する各種の書類を作り、王都の役人と折衝し。
普通なら何人もかけてする仕事を、お兄様は一人でこなしています。私もやっと手伝えるようになりましたが、全てを犠牲にしているお兄様に報いるほどには至りません。
あの剣はアルベス兄様の大切な宝物。それを売っていたら、私は一生後悔し続けていたでしょう。
無理をせず、分割とか延期の相談をしてくれてよかった。それで結果として婚約が破棄されてしまったのなら、それは仕方がないことです。
私の頭は、もうすっきりしました。
「ほら、いつまでもそんな顔をしないで。婚約破棄されてびっくりしたけれど、正直に言えば、伯爵家でうまくやっていけるとは思っていなかったのよね。だから、ホッとしているんだから!」
「ルシア」
「お兄様、しっかりしてちょうだい。家畜小屋の修理の途中だったんでしょう? 雨が降る前になんとかしたいと言ってたじゃない」
「……ああ、そうだな。作業の途中だったよ」
やっと、アルベス兄様が笑いました。
いつもより元気がなくて、顔色が悪くて、でもどんな時でも私には笑顔を見せてくれたお兄様に戻りました。
私は、お兄様の日焼けした顔が好きです。
剣を振るっていたはずの大きな手で大工道具を握り、屋根の修理をしてくれるお兄様を尊敬しています。少し不恰好な仕上がりも、それなりに味わいがあります。
元気になってもらうために、今夜はお兄様の好きなシチューを作りましょう。
……うん、大丈夫。
私は元気で、結婚できないのは残念だけど出費が抑えられたのは嬉しいと思っているし、今日の夕食の献立を考えるくらいの余裕はあります。
だから、私は笑いました。
「イノシシに横取りされる前に、蕪を使ってしまおうと思うの。今夜は蕪のシチューでいい?」
「うまそうだな。楽しみにしているよ」
アルベス兄様はそう言って、私の頭に手を置きました。
簡単にまとめて結っただけの黒髪を撫でた後、自分の頬をぱしん!と両手で叩きました。
「よし、着替えてくる。夕食までには終わらせるからな」
「頑張って!」
部屋を出て行くアルベス兄様は、少しだけ元気になってくれました。