メシアと飯屋は続くよどこまでも
末遠という名の黒いスーツの中年男に名刺を手渡され、事の経緯を聞いたりんは、唖然としていた。
彼女は、メサイアが勇者らしいということをすっかり忘れていたのだ。いいや、この町の全ての人間はメサイアを駄犬だと思っているだろう。
末遠は、人の良さそうな視線を少し彷徨わせて、食堂のテーブルの上に出されたコーヒーに口をつけた。香りも味も上質で、ほんの少し緊張が解れた。
向かいに座ったりんの隣、メサイアはコーヒー牛乳を飲みながら既に手土産を食べている。もう一組持ってきて良かった。
「それで、政府から正式に彼にお願いをすることになりまして」
末遠は腹を決めて、りんに告げる。
「…はあ、」
「実は、日本の海域ギリギリに現れた島に、魔王が存在するらしいと観測されておりまして」
「……はあ?」
「彼に討伐を依頼したいと」
「………大丈夫なんですか?」
二人の視線は、りんの隣で菓子を食い散らかす駄犬に向かう。メサイアはその視線に気付くと、にぱっと晴れやかに笑った。
「やるよ、だって食堂が休業になったら…大変だし」
メサイアは、りんの地雷を思い出して言葉を選んだ。出される料理にけちをつけては恐ろしい。その目は完全にりんの様子をうかがっている。
末遠は、咳払い一つ、気にせずに話を続ける事にした。もう自棄っぱちだった。
「彼は、快く了承してくださいました。そして、その報酬についてお話させていただいたのですが……」
りんは、話半分な気分で末遠に向き直る。彼の目は血走っていて、思わず口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
「飯堂りんさん。彼は、あなたがいいと」
りんはフリーズした。
末遠は、消えてしまいたかった。なぜこの生物兵器のプロポーズを、政府代表として自分がしなければならないのかと。
それぞれの心境など知らずに、メサイアはにこにこと機嫌がよさそうだ。とんだ駄犬である。
固まったままのりんに、末遠は冷酷に告げる。胃に穴が空きそうだったが、これも仕事なのだ。
「それで、本日は政府代表としてあなたに正式にお願いに参りました。りんさん、どうか世界の平和のために、お受け頂けないでしょうか」
「…それ、拒否権はあるんですか?」
りんは、精一杯声を搾って尋ねる。
「拒否権はありますが、世界の敵になるかもしれません」
それはないというのだ。りんが途方にくれながら拳を握りしめていると。
「えー、りんちゃん、ダメ?僕はずっとりんちゃんと一緒にいたい」
隣から駄犬がキャンキャンと飛び付いてきた。いつもの駄犬だった。
「りんちゃんが困らないように、ちゃんとお仕事してくるから。ね、結婚しよう?ダメ?」
そう言われると、りんは苦笑せずにはいられない。ダメかと聞かれれば、ダメだとは思えなかった。駄犬だけど、もう既に家族みたいなものだし、それが生涯のパートナーになるだけなのだ。
りんは、メサイアを引き離して言い聞かせるように指を立てて答えた。
「わかった。ダメじゃないけど、格好よくプロポーズしてくれるまではお預けだからね!」
かくして、一週間後には魔王城は新生地球アーシリアから姿を消した。
最恐の救世主を飼う、最強の飯屋は、そんな事には関わらず今日もかきいれ時の食堂で、作業と時間との戦いを繰り広げているのである。
「りんちゃん、りんちゃん」
駆け寄る駄犬を蹴飛ばしながら、看板娘は平和な戦場を駆け抜ける。
いつの日か本当に夫婦になる日が来るのだろうかなんて、疑いの眼を向けながら。
「あっ、」
厨房の脇、下げてきた食器を置いたりんは、メサイアの声に振り返った。
ふんわりとその頬に、唇が押し当てられる。
驚いて瞬いたりんに、少し照れたようにメサイアは笑って。
「僕のお嫁さん、行ってくる」
爆弾のような台詞を投げつけて消えた。
りんは顔を真っ赤にして、呻きながら空に叫ぶ。
「だから、出掛ける前には報・連・相してって言ってるのに!」
飯屋の平和な日常には、ほんの少しのロマンスが加わっていた。