灰色の記憶1
そんなこんなで死出の山を進みながら、青年はこのどこか抜けた天女に文字を教える日々が続いた。
「違う!おかしいだろ。『くものいと』が『くまのいと』ってなんだよ?よだれか⁉」
「普通に考えたら、くまさんの毛で作った糸のことですよ」
のほほんと樹音は言う。
もはや注意する気も失せてしまった。
「やっぱり、あんたに文字は難しいんじゃあないか?」
「ど、どうしてそんなこと言うんですか⁉」
悲しそうに自分を見る綺麗な樹音の瞳から青年は思わず目を背ける。
「…だって、物覚えが悪いし…何度も同じような間違いをするし…」
「それは!もともと生まれ持った頭が正吉さんと違って不良品だから…でもこれでも成長した方なんですよ!ほら」
熱心に語りかける樹音をよそに正吉は少し違和感を覚えていた。
目を閉じて耳をすませる。
樹音のうるさい声と他に何かが聞こえてきた。死人たちの苦しむ声。それに混じりだんだんと近づいてくるこの音は…
「わかりましたか?私だって成長して…モガッ!なにふるんでふか、しょうきちふぁん!」
正吉は大声で話していた樹音の大きい口に手をあてる。
そして『それ』が近づいてくる方面を睨んだ。
「静かにしろ、絶対に声を出すんじゃないぞ」
黙って『それ』が通りすぎることを待つ。
それ以外に手立てはない。
見つかったら、襲われる。
針がはえるここの木の間から見える赤黒い体。
『それ』が歩くことで木も揺れて不気味な音を奏でる。
樹音も『それ』を目で捉えたのか、驚いたように目を見開く。そしてその顔はすぐに不安の表情を浮かべた。
しかし、悲鳴をあげなかったことは上出来だ。
どうかこのままおとなしくしていてくれ。
だが、この天女はそんなに扱いやすいウサギではなかったのだ。
彼女は震えながら動いてしまった。
地面に落ちている凶器を握りしめ、樹音は目に不安を浮かべながらもその凶器を『それ』になげつけた。
「って、お前なにやってんだよ⁉」
青年は慌てて彼女を押さえつけようとするも、もはやもう遅い。『それ』はぎょろりとこちらを一瞥すると、地面を揺らすようにのしのしと近づいてきた。
もう駄目だ…
すでに死んでいる自分は、ここで死ぬはずはない。
だから生き地獄を味わうことになるはずだ。
覚悟を決め、彼女の前に立つ。
「あんた、なんてことしてくれてんだよ」
「だって、正吉さん教えてくれました。正吉さんが生きていたころ日本という国では節分という行事で、鬼に石を投げるのでしよう?」
「そんなの効くわけないだろうが!しかも投げるのは豆だし!石投げてどうすんだよ!」
そう怒鳴ると樹音の瞳にはみるみる涙が浮かんできた。
慌てたのは青年だ。
おろおろとうろたえる。
「ごめん、俺が悪かったって。泣くなよ、おい!」
彼女に謝っている間にも鬼はどんどん近づいてくる。
「正吉さん、戦うんですか?」
おびえた声で樹音はそっと聞く。
青年はうっすらと笑みを浮かべ頷いた。
タイムリーな話になってしまいました。