蜘蛛の糸 3
蓮の池に落ちた樹音はそのまま『死出の山』なるものに来てしまったらしい。
そこで出会った青年をじっと見る。
初めて、極楽以外の人と会ったことが嬉しくて仕方がなかった。
「あの、名前はなんていうんですか?」
「……藤堂正吉」
もくもくと路を進みながら彼は言った。
樹音は青年の名を舌で転がす。
「トウドウショウキチ…さん」
「別に珍しい名前ではないだろ。…で、あんたは?」
「へ、あ、私の名前ですね!」
「それ以外なにがあんだよ」
ジットリとした目で正吉はこちらを振り返る。
それさえも樹音には嬉しい。
「樹音と言います!呼び捨てでいいですよ!」
「字は?」
彼の言葉に思わず樹音は足をとめる。
自分は字がわからないのに…
「た、多分、樹に音ですよ。こ、こう見えて私、歌は得意で主上によく褒められるんです。極楽の樹は揺れると楽器みたいに綺麗な音がでるから、それみたいだって」
何故、つまらない見栄を張っているのだろう。
嫌だった、彼にまで馬鹿にされるのが。
正吉はいつものように無表情で樹音を一瞥するとまた歩き始める。
「なに言い訳してんのさ。学がない子だっていっぱいいる。恥ずかしくないだろ」
「き、気づいていたんですか…」
顔を赤らめてうつむく。
自分が恥ずかしかった
「別にどうでもいいけど。…あ、あんたそこに針あるよ」
「ほぎょぉぉ⁉」
樹音は慌てて足を止め、ピョンと後ずさった。
その拍子でバサッと書庫から持ってきた本が落ちる。
そういえばこれのせいで潤李に追いかけられ、蓮の池に落ちここにくるはめになったのだ。
拾おうと身をかがめるもその前にスッと正吉の長い手が伸びる。
「あんた、字読めないんじゃないのかよ…」
「そうですけど!眺めてるだけで楽しいんですよ」
ふーん、と言いながらもくもくと本をめくる正吉。
いつの間にやら、いよいよ正吉はその本に没頭する。
「あのぅ」
樹音は遠慮気味につぶやく。
その意図を正吉は察したらしいが本から顔をあげない。
「これ、俺が生きてた時に流行ってた小説」
「そうなんですかぁ」
正吉は本を閉じ題名のところをそっと指でなぞる。
「『蜘蛛の糸』芥川龍之介が書いた児童小説…」
「クモノイト?」
「これ、借りて良い?返すからさ」
さすがの樹音もそれにはためらった。
もともとこの本は天帝のものである。
それを安易に貸していいものだろうか。
思案していると樹音は良いことを思いつきいたずらっぽく笑う。
「私に読み書きを教えてくれたらいいですよ」
そう言うと彼はジットリとした目で樹音を見てきた。
「あんた…思ったより悪女なんだな」
正吉は舌打ちをしながら、そこらへんに落ちていた木の棒を無造作に拾う。
「日本語で良いか?というか俺は日本を出たことがないから異国語はできない」
「教えてくださるんですか⁉」
樹音は目を輝かせて正吉を見る。
それをうっとうしそうな顔をしながら正吉は無言で地面に文字をかいた。
「教えてくれって言ったのはあんただろうが」
「いや…本当に教えてくださるとは思わなくて。そんなに蜘蛛の糸が読みたいんですか?」「別に」
そっけなく正吉は言う。
地面にだんだんと彼が作る美しい字が広がっていく。
文字の事をよく知らない樹音でも彼が達筆であることはわかった。
「好き」
思わずつぶやいてしまった一言に、正吉はギョッとしたように振り返った。
「ご…ごめんなさい。正吉さんがつくる文字がすごく綺麗で…なんというか好きだなって」
「…文字のことか」
正吉は安堵したようにそっと息を吐く。
「あ、でも正吉さん。どうして私に読み書きを教えてくれる気になったんですか?」
何気なく聞いてみると正吉は一瞬だけピクッと動きをとめた。
彼の織りなす文字もその一瞬だけ動きをとめる。
「…正吉さん?」
「いや、あんたに借りを作らせたいだけだから」
いつものように突き放すように正吉は言った。
一方の樹音は『借り』の意味がよくわからず思案に暮れている。やがて、そんな言葉は聞いたことがないとあきらめた。
「…というか、天女っていろんな国の言葉話せるんだよな」
「…え?ああ、それは天女だからというわけではなくてもうここは死後の世というか…現実世界ではないので何語とか関係なく話せる…と極楽の住人が言ってました。あ、だから正吉さんも他の国の人と話せますよ!良かったですねぇ」
まくしたてる樹音に正吉は苦笑いする。
「別に俺は異国人と話したいわけじゃない」
「えー、でも正吉さんってすごく賢そうに見えますよ、そういう人っていつも未知を求めている気がしますけど」
「……俺はただの悪党だよ」
そう答える声が少し寂し気で、影があることに樹音は気が付いた。
だが、感じただけでまたいつもの妄想かもしれない。
「俺が使う日本語は五十音で織りなされているんだ」
「ゴジュウオン?」
「あんたって、そうやって繰り返すこと多いよな…」
「未知なる言葉なので」
いたって真面目に言った樹音に彼は苦笑いする。
「教えてやるよ、美しくて儚い文字の世界を」
そして正吉は樹音が見る限り初めて、純粋で作り笑いでも苦笑いでもない本当の笑みを浮かべたのだ。