蜘蛛の糸 1
樹音はため息をついた。
ここは極楽。死後の世界。
樹音は天帝に仕える天女である。
あふれる水、木々からでる様々な光。
樹音は極楽から出たことがない。だから外の世界であるこの世も、ましてや地獄のことなど何も知らない。
いつもと変わらない日常に樹音は飽き飽きとしていた。
確かに、ここにいることは幸せだ。天帝に仕えられるなど畏れ多く光栄なことだ。
しかし、何かが違う。
もっと外の世界を見てみたい、いろんな人にあってみたい。それが彼女の願いだった。
贅沢な話だ、極楽にいてまで欲がなくならないとは。
樹音は蓮の花を手に取る。
相変わらず美しい。
木々が揺れる音がする。
平和だな。
樹音は少し飛んでみた。天女がきている服、『羽衣』で空を飛べることができるのだ。
どこもかしこもあの蓮の花のように美しい。極楽はこんなところだ。いいところだ。
だがやはりどこか物足りないのだ。
「樹音!」
背後から急に呼びかけられ樹音はギクリとしながら恐る恐る振り返った。
眉を吊り上げ、こちらをにらんでくるこの女は『潤李』という樹音よりも年上で口うるさい天女だ。
「な、なんですか?潤李姐」
彼女はいつも怒っているが、その原因はだいたい樹音のことであった。今日もきっと樹音をまた叱りにきたのだろう。
「なんですかじゃないわよ!あんたまた勝手に書庫にはいって、主上の書物をあさったでしょ!」
「ご…ごめんなさい…」
小さな声で謝る。
それを潤李は鼻で笑った。
「どうせ、字も読めないのに。書物なんて見ても無駄でしょう?馬鹿な娘」
吐き捨てるように潤李は言うとどこかに飛んでいってしまった。
樹音は字を読み書きできない。こんな天女が他にどこにいるのだろうか。
それでも書物が好きだった。何を書いているかさっぱりわからないが、あの匂いも文字も好きだった。
だからいつも書庫に閉じこもって書物を静かにながめている。
それがきっと唯一、外の世界を知ることができる方法であるから。
もしも…ここから出ることができたら…
このことをいつも妄想する。
普通に笑って、泣いて、散歩をして、料理をして…そして好きな人をつくる…
このことを考えると楽しくて仕方がない。
いつか、いつか。
物語のような恋がしたい。
その日も樹音はのんびり一人楽しく書物を読んでいた…のではなく眺めていた。難しいかくかくとした文字と丸い簡単な文字が混ざっている。
不思議な書物だ。
「蜘蛛さん、おはようございます」
樹音はその書物にくっついている小さな蜘蛛に挨拶をする。
蜘蛛はもちろん挨拶を返してくれるわけがなく、何事もなかったかのようにふるまっている。
「蜘蛛さん、照れ屋なんですねぇ」
「樹音!」
その時、遠くから大声で名前を呼ばれ思わず樹音は書物を隠した。
あの声は…やはり潤李だ。
急いで、その場から逃げようと樹音は駆けた。
「樹音!わかってるでしょう?早く出てきなさい!」
近づいてくる猛獣から逃げているような気分だ。
その間にも潤李の声はどんどん大きくなってくる。
いつものように潤李に怒られ、極楽でぬくぬく過ごす。これでいいの?本当にこんな生活を求めているの?
自分に問いかけてみる。
ううん、違う。
私は……
こんな世界が嫌だぁ!
そう思いながらジャンプをした樹音は見事に着地。―――するのではなく足にビシャという感触が伝わっただけであった。
踏みしめられない地面。
額につたう嫌な汗。
足からしみる冷たいモノ。
嫌な予感がする。
嘘でしょ…?
ゆっくりとしかし速く樹音の身体が斜めになる。
「た、助けてくださいぃぃ!」
悲鳴のような声をあげながら、樹音は極楽の蓮の池へ落ちたのであった。