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第八話 書きかけのラブレター

 坂上光司は実直な車のセールスマン。その日の午後、勤務時間中なのに、ふと自宅に立ち寄ってみる気になったのは、たまたま訪れた得意先がすぐ近くにあったせいだった。

 彼は三十二歳。結婚して五年になるが、まだ子どもはいない。妻の佐知子との仲もうまくいっていた。仕事の息抜きに妻の顔を見て、お茶の一杯でも飲もうかと、軽い気持ちで、坂上はマンションの自宅に向かった。



 ドアを合鍵で開けた。チェーンロックがかけてなかったから、どうやら佐知子は外出中らしい。坂上は居間に入った。ふと見ると座卓の上に、便箋やペンが投げ出してある。手紙でも書きあげて、ポストまで投函に行ったのかと、坂上は想像した。

(佐知子は文章が上手で、手紙が好きだからな)

 教養面では、妻にひけ目をいつも感じていた。学問知識にかけては、とても坂上は彼女にかなわなかった。

 なにげなく、坂上は便箋の表紙をめくってみた。白紙ではなくて、文字が書いてある。好奇心に駆られて、坂上はそれを読んでみた。みるみる、坂上の顔は青ざめた。それは、どこかの男にあてたラブレターだった。あなたを心から愛していると、うまい文章でつづってある。

 手紙の文は途中で切れていた。宛名がまだ書き込まれていないから、男の正体はわからない。しかし、坂上の心をとりわけ鋭く貫いたのは、こう書かれた部分だった。

「私、表面は彼を愛しているように見せていても、私に合わないいやな性格の彼を、内心ではとても軽蔑しています」

 坂上の頭の中は、真っ白になった。ふらふらと自宅を飛び出した。勤務先にもどっても、仕事は手につかない。終業後もまっすぐ自宅には帰れず、駅前の居酒屋に入り込んだ。



 深酒で酔った彼の前に、「やあ」と笑顔で座った男がいた。北原三郎といい、坂上とは違ってたくましい体格をしている。彼は隣人であった。佐知子と北原の妻の瞳とは、幼馴染みの仲良しで、その縁からマンションも隣同士に住むようになったし、二組の夫婦は親しい交際をつづけていた。

「珍しいね、あんたがそんなに酔ってるのは。なにか、いやなことでもあったのかい」

「ああ。死んでしまいたいほどだよ」

 しらふだったら、家庭の秘密など、相手がいくら親しくても、口にしなかったろう。そのときの坂上の精神状態はまともではなかった。つい、悩みを打ち明けてしまった。

「実はうちの女房、ほかに男がいるらしいんだ」

 書きかけの手紙を盗み見たことまでは、話さなかった。ただそれだけを告白した。

「こんなとき、おれはどうすればいいのかね」

「いや、おどろいたな。うちの瞳みたいな、がさつな女ならとにかく、貞淑そのものの上品な佐知子さんがねえ」

 北原はびっくりした顔で答えたが、やがて北原にも酔いが回ってくると、態度が変わってきた。「ことを荒立てないで、様子を見るんだな」などと忠告しながらも、うれしそうな笑いを絶やさない。

 酔いの中で、坂上は理解した。この男は、他人の不幸をよろこんでいるんだ。前から、思いやりのない人間だなと感じていたけれど、やっぱりそうだった。余計な話はしなければよかったな。坂上は後悔した。

 坂上の後悔は当たった。内密に、と頼まれたのに、帰宅した北原は、勝ち誇ったような笑いを浮かべて、妻の瞳に言った。

「隣の佐知子さんなあ、浮気をしているんだよ。それは亭主が悪い。まったく、哀れな男だぜ。妻に裏切られるなんて。思いっきり、軽蔑してやりたいね」



 この日の午前中のこと、佐知子は瞳からラブレターの代筆を頼まれた。好きな男ができたのだという。

「私って、文章なんか、まるっきり書けない女。だから、ぜひ親友のよしみで、下書きだけでもつくってよ」

 佐知子はむろん断ったが、あまりに熱心に頼まれるので、1回だけの条件で引き受けた。そして、午後になって書きはじめたところに、瞳からお茶のお誘いを受けた。代筆の手紙は卓上にそのままにして、佐知子は隣室に出向いた。

 北原が瞳の前で、うれしそうに言った軽蔑の言葉、それは北原自身が、そっくり受けるはずのものだった。

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