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第二話 悪女の誘惑

 よく晴れた日曜日だったが、陽は西に落ちた。色とりどりのイルミネーションが、光の壁をつくって、渋谷駅前の広場を大きく取り巻いている。

 渋谷で用を済ませた敏夫は、駅の改札口の方向に急いでいた。敏夫は、二十四歳。大学を出た年は就職難で、やっと小さな会社に入れたものの、そこもやがて倒産して、現在は運送会社にフリーターとして雇われている。

(あ、あれは由香里さん)

 思わず敏夫は立ち止まってしまった。ハチ公像前にたむろする人の中に、知っている顔を見つけたのだ。ほとんど毎日のように、由香里とは職場では顔を合わせている。なのに敏夫は、息づまるような興奮を覚えた。

 由香里は彼より二つ年上の二十六歳。商社員の夫はパリ駐在とかで、由香里は一人暮らしだと聞いている。ぜい肉のないすらりとした肢体。色白できめの細かい肌。なにより敏夫が惹かれたのは、整った由香里の顔から受けるやさしさと、清らかさの印象であった。

──これこそ、ぼくの求めていた理想の女性だ。

 新しい職場に入って、はじめて由香里を見たとき、敏夫の背筋には戦慄に似た衝動が走ったほどだ。あんな女性と結婚できたらと、切実に彼は思った。しかし由香里にはすでに夫がある。



 その由香里と、渋谷で出会った。声をかける絶好の機会じゃないか。憧れの由香里さんと、お茶ぐらい一緒に飲めて、会話ができるかもしれない。職場では、一歩離れた距離にいて、親しく話し合うことはなかった。

 二人が住み、そして通勤している職場は、ここからかなり離れた郊外の街である。渋谷で出会うというのは、まさしく偶然なのだ。

 敏夫は由香里に近寄った。しかし彼より早く、若いハンサムな男性が登場し、由香里のそばに近づいた。うれしそうに由香里のほうからも、男に近寄る。二人は肩を寄せあうようにして、盛り場に向かった。

 敏夫は、二人の動きが気になり、彼らのあとを尾行してみた。二人は果物店に寄り、そして盛り場の雑踏に溶け込む。その先、二人が踏み込んでいったのは、なんと盛り場の裏側にひっそりと広がるホテル街であった。

 ここで敏夫には、後をつける気力が消えた。

(あの人は、不倫をしていた。まさか、あの人が)

 敏夫は絶望の底に突き落された。敏夫の女性観は、一変した。憧れの女性は、軽蔑の対象に変わった。それでも職場を辞めなかったのは、経済的な事情からである。それに悪女と知っても、由香里の姿を身近に眺めたいという、奇妙な心理が動いていた。



 その一ヶ月後、退社時刻に敏夫は由香里に誘われて、喫茶店に入った。二人きりの場で向き合うのは、はじめてのことだった。

「ねえ、吉沢君。私と交際してみない。だって、あなたは私の好みのタイプなんだもの」

 由香里の口元の微笑が、敏夫の怒りに火をつけた。胸にたまっていた憤懣が、一気に口をついて出た。

「お断りしますね。はっきり言って、あなたの顔も性格も、ぼくのいちばん嫌いなタイプだから」

 渋面をつくって、敏夫は横を向いた。

「まあ。そんなに私、嫌われていたの。打ち明けるとね、私、あなたとの結婚も考えたほどなのよ」

 あの浮気相手とは別れたのか、それとも複数で愛人を持ちたいのか。なるほど、悪女はこんな言葉を並べて男を誘惑するんだな。

「結婚──? 御主人はどうするの」

「夫は赴任先のパリが気に入って、フランス女性と結婚して住みつく気になったの。私たち、もう離婚したのよ」

「へえ、そうですか。でもね、ぼくには、結婚できるほどの収入はないんですよ。からかわないでください」

「私の実家は、渋谷にあって、母が一人で住んでいたの。ホテル街の裏側にある一等地よ。兄と実家に行くときは、渋谷の駅前で待ち合わせをして、母の好きな果物を選んでね、よく持って行ったわ。でもその母も亡くなって、兄と二人で財産を分けることになったの」

 敏夫は、由香里の顔を見直した。

「だから私、すごい金持ちになるの。でもこの話を先に言ってしまうと、男の人の本心が読み取れなくなるでしょう。だって私の財産目当てで、私が好きなんて言うかもしれないから。でも、あなたには、見事に振られてしまったから、こうしてお話できるけど」

 寂しげに笑った由香里は、やっぱり敏夫のいちばん好きな女性に見えた。

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