黒い穴の出口に
私は、目の前の男に苦笑を返して。小さく手を振った。
「バイバイ」
次の瞬間、私の姿は男の目から見えなくなった。
ああ、もったいないことしたな。私はそう思う。少なくとも、出会った男は優しく、頼れた。彼の告白どおり、一緒にいたって何の抵抗もない。私が普通の人間だったなら、私はあの申し出を受け入れていた。私もあの男が好きだったのだから。
私は、男の目の前から消えて、闇の中をかけていた。
この闇のことを、人はブラックホールと呼び、この黒き穴は欲望のまま何もかも吸い込むと認識している。この穴は宇宙に存在し、もちろん人間なら入れはしない。入れたとしても、出れるわけがない。
でも、私はそこにいる。私は人間であって、人間ではない。だから、ここにいる。
私の元いた世界では、時々私のような人間が存在した。私のような、時と空間を駆ける人間。
この能力は、神から授けられた、私を呪縛する鎖だ。
「私の世界の、300年後の世界へ」
私が何も動かさず呟くと、穴の出口が広がる。この真っ黒の空間は、男の世界での認識が出口のない迷宮であっても。私の世界では、ここは出入り口のある特別な扉だ。
ブラックホールは、世界全てを飲み込む。時間も、光も、星も。だから、穴の中に入れば、その全てを見ることが出来る。飲み込んだもの全てを、見ることが。
神と鎖に繋がれた私たちのような人間には、見える。
私の世界は、ほとんど水に囲まれている。陸地は本当に微量で、人が住むには狭すぎた。だから私の世界では、人は空に住んでいた。
「300年もすれば、すべて変わる……」
私がよく知っている時間より300年も後の今は、人は水上に住んでいた。ぷかぷかと浮かぶ都市に、私は立っていた。
街の入り組んだ場所のようで、人気はない。静かに、建物の隙間風が吹く。
ここなら誰にも見つからずに生きられるだろうか。追われることなく、生きられるだろうか?
「私の町は、もう、ないのかもしれない」
300年もすれば、何もかも変わるのだろう。空に浮いていたはずの空中都市は、数を減らしている。私の町も、消えている可能性だってなくもない。
少しだけ深呼吸をした私は歩き出した。まずは、人のいそうな中心街へ向かう。そして、隠れる場所を探して、ひっそりと生きる。
整った道に、きれいな風。こういったところは昔から変わらない。
自然と笑みが漏れて――その笑みは消えた。
「ようやく、見つけたぞ」
ああ。何処へ行っても。どれだけ時間を隔てても。神の鎖は、解けないのか。
「私は、帰る気などない」
私は足を止め、声の方向を見た。死神のように、黒き布をまとった時の番人。
私の世界では、時を駆けることが出来る者には特別な義務があった。神と創造主の命令通り、時間を駆け、戦い、他の世界を滅ぼし、取り込むために。
そのために私たちは鎖に紡がれる。
「私は、誰の指図も受けない」
「そう貴様が望んでいても、それは叶わない望みだ」
私は目をつむった。
この世界からも、逃げなくはならない。私の世界であるはずなのに。ここにいる権利は、私にないというのか。
「私は全てを知ることができる」
「その力は神から授かったものだ」
「――授かりたくて、授かったわけではない」
私は自分の胸に手をやる。
「勝手に、神が私に与えた力だ。私が好きに使って何が悪い」
そうだ。私は、誰の指図も受けない。戦うなんて、嫌だ。滅びる世界を自分の力で作るのは、嫌だ。
「神に逆らうのか」
「現に逆らっている。あの時間には、もう戻らない」
鎖は振り切れない。そんなことは知っている。
それでも、自由を知ってしまった私はもう昔の束縛へは戻れない。
「私のようなモノに力を与えた神が悪い」
「なんと無礼な――!」
「私は全てを知ることが出来る。だから」
だから、私は全てを見るために生きる。神や創造主のためになんか、生きてたまるものか。
「さよなら」
私は相手がかかってくる前に、姿を消した。
追われる身になって幾年たったのだろう。神を裏切ったものとして、追われてどれほど時間がたったのだろう。あらゆる時間と世界を駆け巡った私には、それすら分からない。
たった1時間か。それとも何百年も生きながらえたのか。
「わかるわけがない」
私はブラックホールと呼ばれる黒き穴にいた。後ろから時の番人が迫ってくるのを、感じる。
私は逃げようと、次の行き先を決めた。
「238年前の、どこか私の世界に似た世界へ」
適当な過去にむかって、私は見えた出口へむかって。走った。
走った。
広がった出口から飛び出しても私はまだ走った。どこかも分からない森の中を走っていた。私の世界に似ていて、まったく似ていない世界を。私の世界の森は、こんなに大きくない。
そして、走って気づいた。――この世界は、崩壊が迫っている。森の外から聞こえる悲鳴。空を染める真紅の炎と鈍色の煙。
このような戦いの世界。幾度となく見てきた。知ってきた。
私の世界が関係していたものも、していなかったものも。様々なものをみてきた。そして、人が死ぬのを、森が枯れるのを、空が泣くのをみた。
私はそれらを見て思う。神に従って、このような世界と時間を作るのは嫌だ、と。全てを知ることが出来る身だというのに。戦いしか知れないのは、苦痛だ。
「この世界の、100年後へ」
そう呟いて。黒き闇が私を一気に包み込んで、出口へ押しやった。
光が見えて、私はこの世界の100年前と同じ場所に立っていると気づいた。木は大きく成長し、空は青く澄んでいた。戦いは、終わっていた。
悲鳴も聞こえず、炎も煙も見えない。すべて、終わっているようだった。
「どうせこうなるのなら。どうして、人は戦うの」
平和な時間へ戻るのなら。平和な時間を望むのなら。どうして人は戦わずにはいられないのか。
私は微笑した。どうでもいい。100年後には、こうなるのだから。きっと何かしら100年前の戦いで見出して、こうなったのだろう。戦いにも、意味はあるはずだ。
そうでなければ。人そのものが意味のないものになってしまう。
「この世界には、いつまでいられるのだろう」
私はあるきだした。背を伸ばして、まっすぐ前を向いて。
いつまでも追われてたっていい。それでも、私はすべてを知りたい。すべてを知ることが出来るのだから。まだ知らないことを、知りたい。
と、森が終わった所に、一人の男がいた。
「君は――」
ああ、おかしい。この世界は。
あの男の世界だ。
「さっきは、どこへ行ってしまったんだい」
「……遠い所へ行ってきたの」
ああ、おもしろい。こんな、時間の定まっていない私にも。運命というものは、定まっているのだろうか?
「ああ、返事がまだだったのね……」
「そうだよ。なあ、僕と一緒に――」
くすりと笑った。男の顔は真っ赤だ。
「よろこんで」
喜んでついていく。
何度貴方と離れなくてはならなくても。私はこの世界で生きよう。どれほど追われることになっても。なんど逃げることになっても。
私は必ずこの世界へ、この時間へ帰ってこよう。
いくら時間がかかっても。
少し昔に思いついた設定を思い出して書いてみた。
ブラックホールがいろんな世界につながっていればいいのになあ、という私の妄想。