寡婦
私は寡婦です。
実に五人もの夫を迎え、その全てが事故や病気で死にました。
ですから人は私を不吉の象徴であるかのように、恐れを込めて「寡婦」と呼びます。
ご覧、寡婦が通るよ、寡婦が通るよ。
そのように囃し立てられることもあります。
私は歌姫でもあります。
花散る音。
小鳥の囀り。
不吉の象徴のように思われていても、私の歌はそのように称讃され、華族や、時に皇族の前で歌を披露しました。
大正時代の煩雑な空気に、私はお目こぼしされていたのかもしれません。
私は歌います。
亡くなった夫たちの為ではありません。
私をこれまで生かしてくれた神の為に、です。
私には神が私の代わりに夫たちを間引いていったように思えてなりませんでした。
そんな私にも宝があります。
今年で四つになる娘です。
最後の夫との間に出来た、宝子です。
娘に子守歌を歌う時ばかりは、私は母の顔をして、娘の為に歌うのです。
そんな私に性懲りもなく、また母が縁談の話を持ってきました。
もう、もうやめて。
お母さん。
私は夫を殺したくはないの。
平然とした顔を保っていても、心は傷だらけでぼろぼろなの。
私は縁談を断りました。
母は渋い顔で、あんたもいつまでも若くいられないんだからねと言いました。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
私は年老いて夫たちに責められる為に三途の川を渡るのでしょう。
けれど娘の花嫁姿ばかりは見たいものです。
そう思う時、私はほろりと涙をこぼすのです。
近頃、お国が何だかざわざわしています。
不穏な空気を私は感じていました。
初夏の候、華族議員の園遊会に歌姫として招かれた私は、黒地に青い蝶の舞う振袖で舞台に立ちました。最近ではお国の為になる歌を歌うようによく言われます。私は従順に従います。心は神へと捧げながら。
その帰り。
花を私にくれた方がいました。
青い矢車菊です。
貴方の歌は素晴らしかった、と。
こんなことは珍しいことではありません。
私は寡婦に相応しい態度で黙してお辞儀し、花を受け取りました。
お相手は顔立ちが凛々しく整った軍人でした。軍人は姿勢が独特なのですぐにそれと知れます。
貴方の歌をまた聴きたい。
それでは次の山上先生の講演会に来てくださいませ。座興として歌いますわ。
彼の瞳の、特有の熱が、私にその心を知らしめました。
けれど私は知らない振りで、娘の待つ家へと帰りました。
恋など寡婦に相応しくありません。
くだんの講演会の日、娘が少し熱っぽかったのが気になったのですが、母に預けて私は講演会場まで出向きました。
やはり彼はいました。
不思議なことに凛とした立ち姿は、水辺に咲く菖蒲の如く、大衆の中、私の目を惹き寄せるのです。寡婦にあるまじきことと思いました。
私は歌いました。
盛大な拍手の音を聴きながら、彼の姿を探し、そしてそんな自分を嫌悪しました。
寡婦は慎ましく貞淑であるべきです。
家に帰ると、娘が高熱で喘いでいました。
お医者を呼んだけれど良くならない、と母が言います。
娘が。私の宝子が。
弱々しく私を呼ぶ声に、手を握ってやるくらいしか出来ません。
信じられないくらいに熱い手。
翌日の明朝、娘は息を引き取りました。
どの夫を亡くした時より、私は絶望感に打ちひしがれました。
何を見ても心が動かず、私は空虚ながらんどうと成り果てました。
しばらくは歌の依頼も断りました。
彼の顔がちらりとよぎり、すぐに消えました。
娘は泣き顔が可愛かった。
笑い顔が可愛かった。むずがる顔も。
私は。私は本当に寡婦となってしまった。喪った女へと。
それでも生きている以上は食べていかねばなりません。
半年ほどのち、私は久しぶりに歌の依頼を受けました。
華族令嬢の誕生日会で歌って欲しいと。
皮肉なものです。
華族令嬢は健やかな美しさを持つ可憐な少女でした。
私の娘も生きて成長していたら、劣らず可憐だったことでしょう。美しかったことでしょう。
私は胸に渦巻く嫉妬のようなものを抑え、邸の広間に立ちました。
すると、あの軍人が私を見ていました。
懐かしい。
ほんの半年ほど会わなかっただけなのに、もう何十年も顔を見なかったように思いました。彼は畏まった顔で私を見ています。
歌い終わり、報酬を受け取って立食形式のパーティーをすり抜けて帰ろうとしたところ、玄関ホールで待ち構えられていたように、彼に話しかけられました。
娘さんのことは残念でしたね
残念?
残念という言葉のみでこの苦しみが解るものか。
業火に焼かれるような思いが。
凍りつくような嘆きが。
私は灼熱と極寒の心を抱き、彼を睨みつけました。彼はどこか哀れむような静かな目で、そんな私の視線を受け止めます。
誰の為に歌ったのですか。
娘の為に歌いました。
いつか僕の為に歌ってくれますか。
私は彼の言葉を厚顔と思いました。
彼は知っているのでしょうか。私が「寡婦」であることを。
彼は知っているのでしょうか。夫たちを亡くし、娘を亡くし、それでもまだ人に惹かれる心が私に残っていたことを。
彼はその後も私の歌う先々にいました。
私は、胸を切り裂かれるような痛手から、ほんの少しずつですが回復しつつありました。
時折、空洞に吹く隙間風に耐えながら。
星の綺麗な夜、とある邸のバルコニーで、矢車菊を持った彼に求婚されました。
私は己が不吉な寡婦であることを告げました。
それでも良いと彼は言うのです。
不吉も傷も丸ごと貴方を頂きたい。
私は泣きました。
彼の胸に縋り、子供のように泣きじゃくりました。
彼は私の髪をそっと撫でてくれました。
貴方もきっと死ぬのだわ。
死なない。死なないよ。
軍人さんだもの。
死なないよ。貴方と共白髪になるさ。
私はいよいよ泣きました。
そして戦後。
今、私は一男二女の母です。
隣では夫が笑っています。
私はもう寡婦ではありません。