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一杯のコーヒーをあなたに  作者: 押尾千景
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止まない雨はない

 先週から降り続く雨はもう今日で四日目だった。

 お客が誰もいない店内で、何度目かわからないあくびをして、カウンター席を順番に台拭きで拭いていく。これも何度目かわからない作業だった。

 駅から15分ほど歩いた路地の中、住宅に紛れたひっそりとした場所に「喫茶ヒイラギ」はあった。定年退職を迎えたマスターが長年夢だったと開業した喫茶ヒイラギは、古くからの友人がたまにきては雑談をしていく、ギリギリの経営で続いていた。


「大ちゃん、一杯やろうか」

 マスターがドリップポットからドリッパーにお湯を注いでいる。蒸らされたコーヒー粉の芳醇な香りが、店内を満たしていく。

「そんな、居酒屋じゃないんですから」

 差し出されたコーヒーカップを受け取り、カウンターに腰掛け、なかなかやまない雨の様子を見ながらブレンドコーヒーを一口すする。

「雨、やみませんね」

 つぶやいた言葉に返答はなかった。


 大学四年生の僕、高坂大輔が、この赤字続きの喫茶店と出会ったのは4年前に遡る。

 高校の定期試験を控えた僕は、家や学校で勉強をする気になれず、ふらっと立ち寄ったこの喫茶店で参考書を広げていた。といっても、その当時の僕は「おしゃれな喫茶店で一人参考書を広げている」という雰囲気に自分の中で酔っていたに過ぎなかった。

 参考書を広げただけで勉強している気になっていた僕は当然のごとく成績のいい優良生徒というわけでもなく、ごく平凡な一高校生だった。

 そんな僕も大学受験が近くなると人並みに勉強に精をだしていた。始まりは喫茶店でおしゃれに勉強する高校生であることに酔っていた自分も、その頃には喫茶ヒイラギで勉強をするという日常が当たり前になってきていた。

 マスターはたまに注文していないケーキや、軽食を出してくれることもあり、数少ない常連の僕にとても親切にしてくれていたように思う。大学生になってしばらくしたある日、マスターは僕に声をかけてくれた。


「大ちゃん、たまにでいいからうちの店の手伝いしてくれんか。」

 通い詰めた喫茶店でのアルバイトの誘いに断る理由もなく、僕は二つ返事で承諾した。

 なにより、僕はマスターのブレンドコーヒーが好きだった。

 これが平凡な僕と喫茶ヒイラギの馴れ初めだ。



 カランカラン、とドアベルが鳴り響いた。


 入口に立っていたのは、少し長めの黒髪を後ろでひとまとめにし、雨に濡れたスーツをハンカチで拭っている若い女性だった。

 スタイリッシュなパンツスーツを着ているが、小さめの身長に、童顔なその女性は高校生のようにも見え、お世辞にもスーツを着慣れているようには見えない。


 喫茶ヒイラギには、マスターの友人がコーヒーついでにテレビを見に来店するか、近所のお年寄りの井戸端会議くらいしかお客が来ない。謂わば此処は喫茶店の皮を被った老人ホームのようなものだ。つまり、若いお客が来ることはほぼゼロに等しい。

 アルバイトの面接だろうか、それにしてもアルバイトの面接でスーツをしっかり着てくるとは、なかなかしっかりした性格の人なのかもしれない、と思っていると童顔の中の大きめの目が僕を捉えた。


 そして、なぜか苦い顔をした。


 おいおい、僕の顔がそんなにブサイクだったっていうのか。初対面でそんな顔をされたら、元々自信のない顔なのに余計に自信がなくなってしまう。


「あれっ、あっ、すいません!お店閉まってるって気づかなくて、すいません!」

「いらっしゃい。すみませんね、大丈夫ですよ。お店、閉めてませんから。ほら高坂くんぼーっとしないで、お客さんだよ。」

「あ…はい」


 若い女性で一人という喫茶ヒイラギに珍しい訪問者がきたというだけで、僕はお客と認識せずに呑気にコーヒを飲み続けてしまった。店員としてあるまじき行為をしてしまったので、どことなくバツの悪い気持ちになってしまう。飲みかけのコーヒーカップをカウンターに下げ、簡易に作られたメニューを取り出し、窓際のテーブル席を案内する。

 その時に、女性はスーツの端だけでなく、頭頂部から体全体がしっとりと雨に濡れていることに気づいた。

 慌てて踵を返してバックヤードから綺麗なタオルを取り出す。


「あの。余計なお世話だったら申し訳ないんですが、ハンカチだけじゃ心もとないかと思ってこれ、その、使ってください。」

「え…」


 差し出したタオルと僕を交互に見て明らかに困惑した表情を浮かべられたことに気づいてから、軽率な行動だったと後悔した。こんな見ず知らずの初対面の男の店員にタオルを差し出されるという、男性特有の”お節介”を女性は嫌うのだ。と、ネットの記事で読んだことがある。

「すいません、結構雨に降られたのかなって、その、風邪引いたら大変ですし、と思ったんですけどちょっと早とちりですよね」

 慌てて弁明をしたが、それにも少し後悔した。言い訳がましい男も女性は嫌う、と記事には書いていた。


「とんでもない!こんなことしてくれる店員さんいないのでびっくりしちゃって。すいません、使わせていただきます。実は、さっき傘を盗まれちゃって…駅まで頑張ろうと思ったんですけど、思ったより雨がひどくて…」

「それは災難でしたね…飲み物、何か温かいものにしますか?」

「そうですね、それじゃあブレンドコーヒーにしようかな。甘めにできますか?」

「かしこまりました」


 カウンターに戻り、マスターにブレンドコーヒーをお願いする。

 僕はというと、スマートフォンで天気予報を調べていた。雨が止むかどうかについては確率が低そうだが、1時間後の夕刻には小雨になるだろうという大まかな情報が得られた。しかし、”余計なお節介”はもうしない。天気予報など、彼女のスマートフォンでも容易に調べられるし、僕が伝える必要などない。常連の高齢者ともあれば、些細な世間話も交わせるが、今はその接客方法を使うべきではないのだ。


「お待たせしました、ブレンドコーヒーです。甘めにしてみましたけど、ミルクとお砂糖お好みで調節してくださいね」


 マスターが女性に微笑みかけてカップを置いた。女性は一口コーヒーをすすり、温かいため息をついた後に角砂糖をもう一つ追加した。相当な甘党らしい。

 その後小一時間ほど、女性は本を読んだり、スマートフォンを操作したり、スケジュール帳に何かを書いたり、時折外の様子を気にしながら過ごしていたが、雨は止むことはなかった。女性は腰を上げてレジに向かい、僕も同じくレジに向かう。


「雨、止みそうにないので頑張って帰ります。さっきよりマシだし。タオルもありがとうございます。」

「あ、いえ」

「ごちそうさまでした」


 踵を返して出口へ向かう、少ししょんぼりとした女性の背中を見て、「ちょっと、待ってください」と自然に声が出ていた。バックヤードへと走り、適当に置いている自分の私物のそばから傘を持ち出してくる。


「あの、駅まで結構歩くので、これ、えっと、ビニール傘なんで、お店で使ってるやつで、いっぱいあるので、返さなくてもいいので、その…どうぞ。」

「でも、そんな、悪いですお店のものを…」

「本当に、大丈夫なので…」


 それでも渋る女性の様子に、僕もどうしていいかわからず、いいんですだの、どうぞ、だのを連呼するだけのロボットになってしまったところで助け舟が来た。

「せっかく温まったのに、またあなたが濡れたら私たちも困りますので、どうぞお気になさらず受け取ってください」

 マスターの一言に、女性のほうも折れたようで、渋々ではあるが傘を受け取ってもらうことに成功した。


「本当にすいません。ありがとうございます。」


 何度も頭をさげ、店を出た後の曲がり角でもまた再びこちらを振り返り頭をさげる女性に、こちらも同じ回数だけ礼をする。


「お店の傘なんて、一本もないはずなんだけどね。大ちゃんもなかなかやるねぇ」

「やめてくださいよ、そういうのじゃ…」


 ないです、とは言えなかった。女性慣れしていないとはいえ、童顔で小さくて礼儀正しい先ほどの女性に、多かれ少なかれ”いいな”という印象を受けたのに間違いはなかった。


「お店の傘って言い訳をするなら、もちろんシールは剥がしたんだろうね?」

「……シール?…あっ」


 僕は自分の傘に貼っていた「高坂」という名前シールを思い出して赤面した。

 そしてこれが、僕と彼女の馴れ初めである。



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