第九十八話 銀色の竜
(無理だわ! 逃げられない……!)
思わず両目を瞑り、攻撃の衝撃を覚悟していると、どこかから私を呼ぶ声が聞こえてきました。
「ルコットちゃーん! 無事かーい!」
聞き覚えのある声に、恐るおそる目を開くと、目の前には巨大な竜の顔が。
「まぁ! びっくりしましたわ」
思わずそう呟くと、くすくす笑う声が聞こえてきました。
「相変わらず呑気だねぇルコットちゃん。この子が邪竜だったらどうするつもりだったんだい?」
「ハントさま……!?」
竜の背の向こうから、ハントさまが悠々と歩いて来られました。
いらっしゃるとは思っていましたが、まさか竜に乗って来られるなんて。
「……伝説上の存在だと思っていました」
「まぁ、こちらの世界に出てくることはまずないからね。今回は君のピンチにわざわざ飛んで来てくれたのさ」
「……まぁ」
私自身よりも大きな、綺麗な瞳をじっと見つめます。
よく見ると、とても優しそうな顔をしていました。
「……もしかして、ノヴィレアさまのご友人ですか?」
ふと、そんな気がして問いかけると、牙の生えた口角が、少しだけ上がった気がしました。
「ご名答! そしてこの子は君にとても感謝しているのさ。主人に逆らっても君を助けたいと思うくらいにはね」
「それはどういう……?」
そのとき、ハントさまの後ろから、たくさんの足音が聞こえてきました。
「ルコット……!」
「無事ですか!」
「良かった! 追いつけたのね!」
「まったく、いつも一人で突っ走って……!」
「ヘレンさん! エドワードさん! リリアンヌさま! ターシャさま!」
それだけではありません。
先ほど別れたばかりのスノウ姉さま、ハルさま、サクラスさま、アーノルドさま。
「ルコットちゃん! 助けに来たよ!」
アスラさま、マシューさま、ロゼさま、ハイドルさま、ルイさま、オルトさま。
「ルコットちゃんや! ワシらに任せとけ!」
サイラスさま、ブランドンさま、ベータさま。
「無茶は許さないわよ!」
サファイア、メノウ、フィーユ姉さまを始め、十八人のお姉さま。
「ルコット、息災か?」
「助けに来たわよ!」
フュナさま、シスさま、ランさま。
そして――
「無事か! ルコット!」
「……お父さま」
青いお顔をされた陛下。
「まだまだ他にもいるよ」
ハントさまに促され、視線をずらすと、信じられない方々がいらっしゃいました。
「……カタル国皇帝皇后両陛下、シルヴァ国国王陛下、王妃殿下」
扇で口元を隠された皇后さまと、荘厳な長衣姿のカタル国皇帝陛下、そして、抜けるような肌と御髪に、ばら色の頬をされたシルヴァ国王夫妻は、可笑しそうに笑われました。
「やっと会えましたね、ルコットさん」
「フュナとシスが世話になりました。ずっとお会いしたかったのですよ」
「私もです。まさか本当に来てくださるなんて」
カタル国皇帝夫妻がこうして人前に現れることは滅多にありません。
それが神秘の国の在り方だと言われていました。
それなのに、私たちの危機にこうして駆けつけてくださったのです。
皇帝陛下は静かな瞳で、フュナさま、シスさま、そしてランさまを見つめられました。
「たとえ国が違っても、そこには友情が芽生え、愛情が育つ。そうなのだろう?」
予想外のお言葉だったのか、お二人は暫し唖然とされていましたが、すぐに勢い込んで頷かれました。
「その通りですわ、お父さま!」
「俺はもう、彼らと戦いたくない。……すごくいい人たちなんだ」
それを聞いた陸軍隊員の方々が、目頭を押さえられていました。
「俺たちだってあんないい子たちと二度と戦いたくない……!」
「まったくだ!」
「おい、こら、親子水入らずの場面で騒ぐな」
シスさまとフュナさまの口元に微笑みが浮かびます。
それをご覧になられた皇后さまも、とても嬉しげでした。
「ルコットさま。あなたは殺されかけながら、恐ろしい思いをしながら、それでもこの子たちを憎みませんでした。罰することさえ望みませんでした。それどころか、良き友人になろうとされた」
頭の中に遠い日の記憶が蘇ります。
花降る中、聖堂の鐘が鳴り響いたあの美しい婚礼を。
私の判断を優しく受け入れてくださった、かの方の笑顔を。
「あなたの選択が、偶然私たちの胸を打ち、私たちにこの戦いの無意味さを悟らせたのです」
皇后さまのお言葉に胸が熱くなります。
あの日の私が、「逃げ出したい」と恐れながら、それでも「彼に恥じない自分でありたい」と下した決断が、誰かの胸を打っていたなんて。
「ですから、礼など不要なのです。私たちは、子どもたちの友人の危機に駆けつけた、ただのお隣さんなのですから」
黒真珠のような瞳で茶目っ気たっぷりに微笑まれる皇后さまに、シルヴァ国の王妃さまも同調されます。
「私たちにとっては、義娘たちの危機ですもの。ねぇ、あなた」
「……左様」
寡黙なシルヴァ国王さまでしたが、その眼差しは優しいものでした。
「もう二度と会えまいと思っていた息子が、再び城へ帰ってきたときの気持ちを、私は生涯忘れまい」
国王陛下が仰ると、王妃さまもまた「はい」と頷かれます。
「……どんなに嬉しかったか」
スノウ姉さまと並ばれていたハルさまは、泣き笑いのようなお顔をされています。
お二人はそれをご覧になると、いっそう深く微笑まれました。
「この子のこんな笑顔は見たことがありません。ハル、幸せなのですね」
「……はい、とても」
ハルさまが、曇りのない美しい瞳と、確かなお声で答えられます。
その場にいる方々、皆の頬がほころんだように見えました。
「確かに、私たちの歴史は戦いの連続でした。その歴史が消えてなくなるわけではありません。ですが、戦いの悲しみが戦いで癒えるわけではない。あなた方のおかげで、ようやく気づけました」
「……ハル、スノウ姫、愚かな父だが、どうか二人の幸せを願わせてほしい」
ハルさまは驚いたように沈黙された後、目を細めて頷かれました。
「父上を愚かだと思ったことはありません。国を想うあまり、少々不器用でいらっしゃるだけです。……僕は、そんなあなただからこそ、父として、王として、尊敬し、愛していました」
スノウ姉さまは、そんなハルさまを、何より眩いもののように見つめられていました。
「……彼は、口を開けば『民のために何ができるか』そればかり。やはり親子なのですわね、国王陛下。……そして私は、そんな彼だからこそ、愛してしまったのですわ」
その瞬間、王様の瞳が星のようにキラキラと輝きました。
王妃さまが歌うように口を開かれます。
「あの子が手紙で言ってた通り、とても強くて誇り高くて、そして――可憐な方ね。……愛って、とても素敵なものね」
お姉さまの頰が微かに赤く染まりました。
「ねぇ、ルコットさま」
王妃さまは、銀色の瞳で真っ直ぐに私を射すくめられました。
「全ての始まりはきっと、あの日、聖堂を駆け抜けたあなたたちの愛だった。私たちはあなたの愛を取り戻しに来たの」
――お待ちしていました。
あの声が今もまだ、私の胸に残っています。
アルシラで共に見た夜空。
賑やかで楽しかった夕食。
朝は、私がドアを開くといつも、エドワードさんとの会話を置いて振り返り、明るい笑顔で迎えてくださいました。
お勤め中にこっそりお姿を拝見して、その凛々しさに見惚れ、帰り道で夕食のメニューに悩み、帰ってからはどんな服でお出迎えしようかと緩む頬で考える。
幸せでした。
にじむように幸せな日々でした。
もう全て過去のこと。そう思っていたはずなのに。
一度溢れ出した幸せな記憶は――会えない間さえ積もり積もっていた愛は、抑えてもおさえても、溢れてとまりませんでした。
「ねぇ、ルコットさま、あなたの愛はどこ?」
彼が心配。
その一心でここへ来たはずなのに、今心に浮かんでいるのは全く別の感情でした。
「私も、彼に、会いたいです。会って、この気持ちを、伝えたい」
そのとき、地上から私たちを呼ぶ声が聞こえてきました。




