第九十七話 我らが大将
「……間に合わなかったか」
国境の山を走り降りながら、スノウ姉さまが歯嚙みされます。
眼前には武装した民衆が結集していて、エメラルド側も既に迎撃態勢です。
かろうじて戦闘は始まっていませんでしたが、どう見ても一触即発の状況でした。
よく見ると、陸軍の皆さまが武装した人々をなんとか押しとどめてくださっているようです。
「やめろよ! 武器をしまえ!」
「おい! 篝火を増やすな! 消せ消せ!」
「王室の対応を待つようにと殿下からお達しがあっただろう!」
全部隊総動員の人数ですが、民衆の数が圧倒的に上回っています。
国中の人々が、国境沿いのこの地に集まっているかのようでした。
「いや、退かない! これ以上待ちきれん!」
「そうだ! こうしてる間にもホルガーさんがどんな目に遭わされているか……!」
「あんたらの大将だろう! 仲間が捕まって何とも思わないのか!」
そのとき、見覚えのある方が、一歩前に出られました。
理知的でいつも冷静なフリッツさまです。
しかしその口から出てきた言葉は、これまで聞いたことのないものでした。
「何とも思わないわけないだろ……!」
周囲一円に響き渡った咆哮に、軍の皆さままで呆気に取られています。
騒いでいた方々も、口を閉ざしました。
「俺たちだって、できることなら助けに行きたい! 銃弾食らおうが、剣戟受けようが、たとえ死んでも! そんなことはちっとも怖くない!」
「大佐……」
いつのまにか、皆が彼に注目していました。
いつも飄々としているリヴァル中将や、ライバルのフラン中将でさえ、痛みに耐えるような表情をされています。
フリッツさまは俯くと、「……しかし」と両手をきつく握られました。
「……俺たちの大将が、そんなこと、望むはずがないだろ」
誰も、その言葉を否定することはできませんでした。
武装した人々もまた、悔しげに俯き、唇を噛んでいます。
「……じゃあ、一体どうすりゃいいんだよ」
私は思わず駆け出しました。
「あ、こら、待ちなさいルコット!」
慌てたお姉さまの声を背に、私の口は動いていました。
「お任せください」
振り向いたフリッツさまの目が見開かれます。
他の方々も信じられないものを見たかのような顔をされていました。
「ルコットさん……」
「皆さま、お久しぶりです」
淑女の礼をとると、周囲がにわかにざわつきました。
「ルコットさまだ……!」
「海原の姫君が何故ここへ?」
「だから言っただろう? お二人はまだ愛し合っておられるんだよ!」
辺りの声にはっとされたフリッツさんが思い出したかのように手を取られます。
「ルコットさん何故こんな危険なところに!? 急いで避難を!」
あまりの慌てぶりに、思わず笑ってしまいます。
それから、「いいえ、避難はしませんわ」と首を振りました。
フリッツさまは困ったように眉を下げられます。
「ルコットさん、聞き分けてください。あなたにもしものことがあったら大将がどれほど悲しむか……俺たちだって……」
気がつくと、懐かしい皆さまに囲まれていました。
「ルコットさん! お元気でしたか」
「もう二度とお会いできないかと……」
「おい、泣くなよ」
「お前こそ……」
数年前と変わらない情景がそこにはありました。
私はもう一度、震える声で「お久しぶりです」と呟きました。
「お元気、でしたか」
「元気に決まってるじゃないですか!」
その声を皮切りに、辺りが沸き立ちます。
降りかかる質問の嵐にお答えしていると、フラン中将がやって来られました。
「やっと来たか、娘。待ちくたびれたぞ」
「私が来ることがわかっていたんですか?」
フラン中将はふんと満足げに笑われました。
「あいつの一大事にお前が来ないわけないだろう。逆も然りだが。……それで? 作戦は?」
口を開こうとしたそのとき、パアンッと空砲が響き渡りました。
「くそっ! 来やがったか!」
丘を挟んだ向こう側、鬱蒼と茂った木々の影に、彼らは銃を構え、横一列に並んでいました。
「我々は、エメラルド国国防軍、国境防衛部隊である。フレイローズに告ぐ。皆速やかに武器を捨て、両手を上に上げよ」
「いやいやいや! 待ってくれ! すぐ撤退させるから! これは……」
「言い訳は無用。我が国にて相応の取り調べを受けてもらう」
それを聞いた人々の間に再びざわめきが起こり始めました。
「なんて一方的な……」
「話を聞かない奴らめ」
「横暴すぎる!」
「俺は抵抗するぞ」
「俺だって!」
最前線の人々が、銃を肩に担ぎます。
「待ってください!!」
私が叫んだのと、それが起こったのは、同時でした。
「……何だ?」
先ほどまで広がっていた青空。
それがまるでろうそくを吹き消されたかのように、黒く染まったのです。
それなのに、周囲の様子は変わらずはっきりと見えます。
まるで、白黒の世界に投げ込まれたかのようでした。
次の瞬間、轟音が響き渡り、天に稲妻が走りました。
突風が次々と丘の上を吹き渡り、木々を激しく揺す振ります。
人々は、飛ばされぬよううずくまるだけで、精一杯でした。
――愚かなる人間よ。私は悲しい。
木々がなぎ倒されていき、地面も揺れ始めます。
人々は呆然と、膝をつきながら天を見つめていました。
――もはや我慢ならぬ。今一度、世を平らかにすべし。
今度は、空が赤く染まりました。
揺れていた地面に亀裂が入り始め、とうとう、地形が変わり始めました。
人々もようやく我に帰ったのか、一斉に撤退を始めます。
「ルコットさん、あなたも撤退を!」
「待ってください! まだ逃げきれてない人がいるんです」
花水晶の指輪に触れ、「飛行」と唱えるとふわりと体が浮きます。
「皆さまは先に撤退してください」
制止を振り切り、宙を飛んで前線に向かいます。
ちょうど崩れかけている地面に立たれていた方を間一髪でキャッチし、避難中の方々の元に降ろしました。
まだ飛行の魔術は完璧ではないので、誰かを抱えて長時間飛ぶことができないのです。
「ルコットさま、ありがとう…! 助かりました!」
「いえ、ここも危ないです! 早くお逃げください」
逃げ遅れた方を救出しながら、前線へと進んでいきます。
とうとう最前線へと至ったとき、自分以外の影が地面に落ちていることに気づきました。
思わず上を見上げて、唖然とします。
そこには、真っ黒の空を背に飛ぶ、銀色の翼竜がいました。
町一つ分はありそうな体躯に、巨大な力強い翼、長く伸びた尻尾。
言葉をなくしていると、遥か上空から、音もなく舞い降りてきました。
(に、逃げないと!)
ようやく固まっていた頭が動き始めたときには既に、竜は目の前に迫っていました。




