第九十六話 ダンラス王とホルガー
馬が、青い草を駆る。
全身を撫でる風と、遠く聞こえる水路の音。
頭上の太陽は中天にかかり、眩しい日差しが降り注ぐ。
馬を走らせていたホルガーは、思わず前方のダンラス王に呼びかけた。
「良い国ですね、ダンラス王」
ダンラス王は馬の速度を落とし、「なんだ突然」と振り返った。
ホルガーは馬を並べ、周囲を見渡す。
豊かに茂った自然と、共存するかのように広がる畑。収穫に励む楽しげな民の声。
「こうして各地を見て回り、ようやく確信したのです。この国が、いかに良き国であるかを」
ダンラス王が驚いたように眉を上げると、ホルガーがくしゃりと飾り気のない笑みを浮かべた。
「あなたは民にとても慕われている。それは、王が民を誰より大切に想っているからなのでしょう」
ダンラス王は否定しなかった。どこか居心地悪そうに、気難しい顔で視線をそらす。
目線の先の村で、若い男衆が昼食をとっている。洗濯中の女性たちが談笑し、子どもたちは元気に駆け回り、老人はその様子に目を細めていた。
「先ほどの村で聞きました。あなたは、民のために長年愛した女性との結婚を諦められたのだと」
ダンラス王は表情を変えず、「そんなこともあったな」と呟いた。特に何の感慨も伺えない。
「……もう、昔の話だ。余に見る目が備わっていなかった。それだけの話よ」
「……詳しく伺っても?」
食い下がったホルガーに、ダンラス王は意外そうに目を見開き、「お前のような男も色恋に興味があるのだな」と笑った。
「許そう。何の面白みもない話だが」
* * *
それは、政略結婚だった。
当時フレイローズとの争いが絶えず、政情が不安定だったエメラルドは、他国との関係を強化しておきたかった。
そこで目を付けたのは、フレイローズと反対側に位置するタスカナン国。
人口およそ数万人の小国だったが、鉱山が多く、中でも魔水晶がよく取れたため、経済的に豊かな土地だった。
そしてその地には、諸国でも有名になるほど愛らしい、幼姫がいた。
「必然だった。タスカナンは防衛力を、我が国は経済的支援を求め、余とその姫は婚約した。齢十の頃だった」
そして顔合わせの日。
一目会ったその瞬間から、二人の恋は始まった。
「有り体に言えば一目惚れだったのだろう。彼女は噂にたがわず美しい姫だった。そして自惚れでなければ、彼女もまた、余を憎からず想ってくれていた」
幼い美姫は、蝶よ花よと育てられたためか、少々わがままで、底抜けに素直な少女だった。
そこがまた、たまらなく愛らしく思えた。
ダンラスは彼女を喜ばせようと、会うたびに高価なドレス、宝飾品、希少な宝石を贈り続けた。
彼女はそれを見ると瞳を輝かせ、花のような笑顔で大げさなほどに喜んだ。
それがまた、幼いダンラスの自尊心をくすぐった。
彼女を喜ばせるために、プレゼントの質と頻度は次第にエスカレートしていった。
しかしそれはあくまでダンラスが自由に使える金額内でのこと。
間違っても国庫に手をつけるようなことはなかった。
恋に溺れようとも、ダンラスは時期王としての自覚を忘れなかったのである。
徐々に姫は不満を口にするようになった。
――今月のプレゼントは先月より少ないわ。
――このネックレスよりあっちのブレスレットがよかったのに。
――プレゼントがないなら会いたくない!
「……たしなめるべきだったのだろう。しかし、あの頃はただ、初恋の相手に嫌われまいと必死だったのだ」
それからも、騙しだまし関係は続いていった。
とうとう父王が崩御し、即位の日取りも決まると、ダンラスはいっそう悩みに沈んだ。
その頃にはもう気づいていた。
彼女はエメラルドの国母にはなりえないと。
あれが欲しい。これが欲しい。
勉強は嫌。公務は嫌。
――ねえ、水路が完成したら、各地からこの城に、もっともっとたくさんの宝石が集められるんでしょう?
そうではない。そんなことのための水路ではない。
そう説明すると、まるで子どものようにヒステリックに癇癪を起こした。
日ごとにダンラスのため息は増えていった。
そこにはもう、愛情など残っていなかったのかもしれない。
かつての楽しかった思い出に縋り、疲労に耐えながら、現実から目をそらしていた。
そしてとうとう、その日はやってきた。
――ラム鉱山で宝石の発掘をさせてちょうだい。民はちょっと危険だろうけど、私そこの宝石がどうしても欲しいの!
ダンラスは固く目を閉じ、しばらく沈黙したのち、ゆっくりと口を開いた。
――すまない。余はそなたと結婚することはできない。
それから、ヒステリックに怒り喚く姫を丁重に送り返し、正当な手続きを踏んで婚約を解消した。
求めに応じ、多額の賠償金を支払い、他の嫁ぎ先まで手配して、ようやく彼女は満足気に「今までありがとう」と去って行った。
あっさりしたものだった。
それはダンラスも同様で、後に残ったのは「ようやく民を守りきれた」という冷静な安堵だけだった。
* * *
「まぁ、若気の至りだな。彼女が悪かったわけでもない。しかしあれ以来、どうにも妻を娶る気にはなれぬ」
世継ぎのためにも、国のためにも、妃は必要。
それはわかっていた。
しかし、もしその女性が、民を害するような本性を隠していたら?
「余はこの国の王だ。そうあるべく教育を受け、幼い頃から国の未来だけを思い生きてきた」
この国に暮らす人、一人ひとりが、ダンラス王の全てだった。
「故に、妃にも民を心から慈しんでほしい。そう願ってしまう。……宰相には、そんな女性がいるものかと、言われてしまったが」
苦笑する王に、ホルガーは首を振った。
「いますよ」
例えば、あまねく民を救わんと、戦場を駆け続けた女魔術師のように。
父王を支え、国のあり方を模索する銀色の王女のように。
そして――人々の未来のため、血の滲むような努力の末、歴史、文化、物理、天文、語学、あらゆる学問を修め、魔術さえ身につけた、優しい彼女のように。
ホルガーの表情が変わる。
愛おしむような、慈しむような、懐かしむような、儚くも温かな眼差しで、遥か彼方の「彼女」を見つめていた。
「その『彼女』は国に……フレイローズにいるのか?」
ダンラス王はどこか遠慮がちに問いかける。
ホルガーは力なく「ええ」と頷いた。
暫しの沈黙。
躊躇いの後、王はもう一度、静かに問いかけた。
「そなたは、『彼女』を愛しているのか」
ホルガーはその質問に、心底優しい笑顔を見せた。
「はい。幸いなことに」
まるで、彼女に出会えたことが生涯最大の果報であるかのように。
その笑顔は、ダンラス王の心を、じりじりと刺激した。
「……もしそなたが国に帰りたいのなら」
そのとき、国境沿いの山の端が、じわりと赤く光った。光は次第に大きく広がっていく。
呆然とする二人の耳に、斥候の報告と号令が流れ込んできた。
「敵襲! 敵襲!」
「大変です! フレイローズの民が、攻め込んで来ました!」
「第一班から第七班、ただちに迎撃に向かいます!」
「王よ、ご指示を!」
二人は緊迫した表情で頷き合うと、馬の手綱を握った。




