第九十二話 ほどけはじめた誤解
ホルガーは、久方ぶりの高揚感に浮足立っていた。
ぶつかり合う剣の音。
演習場の爽やかな空気。
頬を伝う汗を拭う風が涼しい。
剣戟の合間にウォルドの顔が見える。
彼もまた苛烈な笑顔を見せていた。
思わず手に力がこもる。
ぐっと足を踏み込み、ひときわ強い一撃を放とうとした、そのとき――
「そこまで」
演習場に、威厳ある声が凛と響いた。
ホルガーは、はっとして動きを止めた。
それはウォルドも同じだったようで、すぐに腕を下ろし、声の主を凝視する。
「……ダンラス王」
そこには、いつの間にか試合を見物していたダンラス王がいた。
読めない表情で、静かに腕を組んでいる。
「……そこの」
睨まれたホルガーは肩を揺らし、気まずげに視線をそらす。
「………はい」
「余は部屋から出るなと申し渡したはずだが?」
「……申し訳ない」
王の側に控えていた女もまた、「申し訳ありません」と頭を下げた。
「私が付いていながら、お止めすることができず」
「それはよい。そなたは身を第一に考えよ。そもそも奴に侍女を付けたのは、冥府の悪魔も女に手は上げぬだろうと考えてのこと」
ホルガーは意外そうに目を見開いた。
ダンラス王は賢王と名高いが、同時に冷徹王とも呼ばれていた。
下々のことは道具程度にしか思っていない、政治と戦のことしか頭にない、統治の化身だと。
しかし、周囲の者たちに怯えた様子は見られない。
それどころか皆、驚いた素振りもなく、王の見物を歓迎しているようだった。
「ウォルド」
「は」
「良い試合だった。冥府の悪魔を相手にその剣で渡り合うとは、さすが我が近衛兵団第一部隊隊長だ」
ウォルドは複雑な面持ちで顔をしかめるも、「勿体ないお言葉です」と頭を下げた。
ウォルドにはわかっていた。
ホルガーが、自身の実力の一割も出していなかったということを。
確かに、全力で向かっては来た。
しかしそれは、相手が死なない程度に全力で、だ。
つまりウォルドの実力は、ホルガーの十分の一にも満たないということだった。
その悔しさに、ぐっと両手を握った。
しかし、同時に久しく感じていなかった、剣を振るう楽しさを感じていた。
まだ剣を学び始めて間もない頃、寝ても覚めても剣を振り、一心不乱に師に立ち向かっていたあの頃。
忘れかけていたあの新鮮な感覚が、まざまざと蘇ってきた。
「……礼を言おう、ホルガー=ベルツ」
侍女に頭を下げていたホルガーが、驚いたように振り向く。
ウォルドはそんなホルガーに苦笑した。
「いつの間にか、俺は自分の実力に満足し、驕っていたようだ。まだまだ上には上がいる。お前のおかげでそれに気づくことができた」
それから、躊躇うような沈黙の後、再び口を開いた。
「……お前は、昔のことを悔いているようだが、過去は変えられない。どうしようもなく、残酷なことだ。――しかし、だからこそ」
そこで、ウォルドは初めて、毒気の抜けた笑顔を見せた。
「これからどうするかが大事なのだと思う。悪かったな、冥府の悪魔などと呼んで」
これには、ダンラス王も大きく目を見開いていた。
ホルガーは、時が止まったかのように、じっとウォルドを見つめた。
思えばこれまで、こんな話を誰かとしたことなどなかった。
同じ軍人という立場で、他国の人間からかけられた言葉。
それが、まるで振り子のようにホルガーの胸を打ち、じわじわと積もり積もった後悔を、確かな原動力に変えていった。
晴れやかな空気の中、浮かんできた涙の膜で、視界がかすむ。
「……ありがとう。俺も、お前と会えてよかった、ウォルド」
そう言うと、ウォルドはまた不機嫌そうに顔をしかめた。
「……まったく本当に、気の抜けたやつだ」
* * *
自室に戻り、ダンラス王はじっと考えていた。
籐で編まれた椅子の上で、暗くなった空を見上げる。
――俺はただ、この手の届く範囲全ての人を――仲間を、家族を、国を、守りたかった。
ため息をつき、きつく目を瞑る。
「何だというのだ」
残酷な軍事大国フレイローズ。
立ちふさがるもの全てを武力で薙ぎ払ってきた恐ろしい国。
幼い頃からダンラス王は、かの国の野蛮さ、冷酷さを嫌というほど言い聞かされてきた。
自分たちが善で、彼らが悪であることを疑ったことなどなかった。
しかし、あの男は言ったのだ。
守るために戦っていたのだと。
膝の上で歴史書のページが風に揺れる。
大陸全土の歴史が収められた、この国で一番厚いものだ。
そしてそこに「フレイローズが自ら他国に進軍した」という事実は記されていなかった。
もしかすると、かつてはそういう時代もあったのかもしれない。
しかしここ数十年、少なくともダンラス王の知る限り、フレイローズ国は防戦一方だった。
考えてみれば当然だ。
四方を四つの国に囲まれているのだから、下手に国を空けるわけにもいかない。
――フレイローズを陥落し、そのまま残りの三国を侵略しよう。
そんな野心を抱き、四国は何度もフレイローズへ進軍を重ねていた。
「フレイローズは……あの男は、ただ自国を守っていただけだったのか」
あの男は、嘘をついていない。
そしてきっと、悪ではない。
――結局、戦いは何も解決してくれなかった。それに気付くまで、随分多くの犠牲を払ってしまった。俺はもう、何も奪いたくない。
あの男を冥府の悪魔にし、あんな後悔をさせてしまったのは、他でもない己なのかもしれない。
ダンラス王はもう一度深いため息をつくと、窓越しに輝き始めた星々を眺めた。
そこへ、控えめに扉がノックされた。
「陛下、レージュでございます」
「入れ」
楚々と入室したのは、ホルガーの側付きを命じられた侍女だった。
まだ年若い、少々気の弱いところのある優しい女性だ。
レージュは人払いされた部屋で頭を下げた。
「務めご苦労。奴の様子はどうだ?」
「はい。ホルガーさまは現在夕食を済ませ、お部屋で本を読まれています」
あれから、ホルガーは謝罪の後、おとなしく部屋に戻った。
自分のせいでレージュが叱られるとでも思ったのか、頑なに彼女をかばう様子まで見せて。
おかげでレージュはすっかり異国の大将を信用してしまっている。
あれで一切打算がないのだから、何とも恐ろしい奴だ、とダンラス王は本日三回目のため息をついた。
「……明日の予定は」
「相当反省されているようでして、明日は一日部屋でおとなしく本でも読まれると」
ダンラス王の眉間にしわが寄った。
確かに、部屋から出るなと命じたのは自分だ。
しかし、あの狭い部屋で四六時中過ごしていれば息も詰まるだろう。
話し相手が年若い女性一人しかいないならなおさらだ。
自分なら、きっとどうにかなってしまう。
「……奴の待遇も考えねばな」
そう言うと、レージュの表情が見るからに明るくなった。
「はい!」
「奴は他に何か言っていたか?」
王の問いに、レージュは暫し考える素振りをし、「大したことではないのですが」と口を開いた。
「エメラルドの本を読まれてしきりに感心されているようです。特に陛下の水路事業には驚かれていました。それから、フレイローズのことを色々お話してくださいます」
南国エメラルドでは、長らく地方の水不足に悩まされてきた。
そこでダンラス王は全国に水路を敷く事業を始めたのである。
「陛下のこともお聞きになりたいご様子でした。『ダンラス王はどんな方だ?』と聞かれましたので、『皆に慕われた良き王ですわ』とお答えしましたら、鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔をされていました」
その様子を思い出したのか、レージュはくすくすと笑った。
ダンラス王も苦笑する。
「他国での余の評判はあまり宜しくないようだな」
「恐れながら、そのようですわ」
もしかしたら、自分たちの間には、何か重大な誤解があるのかもしれない。
もちろん、フレイローズが軍事大国であることに違いはない。
しかし、もし仮に、そこが自分が思っているような悪逆非道の国ではないのだとしたら……一体、どのような所なのだろう。
「明日、奴はどこで朝食を?」
「はい?」
思わず口から出た言葉に、レージュが不思議そうに首をかしげる。
「何故そんなことを?」と言わんばかりの表情だ。
「お部屋にお持ちすることになっておりますが」
「……一階のテラスに呼べ」
「え?」
意味がはっきりと掴めずに固まったレージュに、ダンラス王はわかりやすくはっきりと伝えた。
「朝食を共にしようと伝えよ。水路について話してやる。それから、余がじきじきに我が国を案内してやる」




