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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第九十一話 軍人ウォルド=ゼノビアとの出会い


 緑色にきらめく蝶が、王宮の庭をのんびりと飛んでいる。

 室内ハンモックに揺られ、真っ青な空を窓越しに見上げていると、南国特有の風が日よけをはたはたと揺らした。


「……暇だ」


 果物を抱え、枕元に佇んでいた女性がびくりと肩を揺らす。

 何せ相手はあの冥府の悪魔だ。

 退屈しのぎに何をされるかわかったものではない。


 しかしホルガーは、彼女の予想とは裏腹に、何とも穏やかな声色で口を開いた。


「あの」

「は、はい……」

「外に出てもいいだろうか。もし仕事の邪魔でなければ、どこか案内してもらえると助かるんだが」


 まだ若い侍女は内心、「どうしよう」と狼狽えた。

 王からは部屋から出すなと命じられている。

 しかし今この男に逆らえば――。


 数瞬の躊躇いの後、彼女はとうとう、王への忠誠を取った。


「な、なりません。部屋から出てはならないという王のご命令です」


 心臓が早鐘を打つ。

 くらくらとする視界の中、それでも、この恐ろしい悪魔から目が離せなかった。

 すぐに怒り始めるに違いない。

 きっと、助けを呼んでも間に合わないだろう。

 ぎゅっと両手を握り、覚悟を決める。


 しかし、ホルガーはただ一言、


「そうか」


 そう言っただけだった。

 暴れる気配も怒鳴り出す様子もない。


 侍女はそろそろと視線を上げ、ホルガーを視界に収めた。

 彼は数刻前と全く変わらぬ穏やかな表情で、「それなら君はここにいてくれ。ちょっとその辺を散歩してくる」と立ち上がった。


「な」


 唖然とする侍女の横をスタスタと通り過ぎ、扉に手をかける。

 扉の向こうに消える直前、「あぁ、心配はいらない」と付け加えられた。


「夕飯までには戻ってくるから、君が咎められることはない」


 ばたん。

 あくまで静かに扉が閉められた。


 はっとした侍女は、ようやく自体を飲み込み、その場で叫んだ。


「な、なりません!」


 そうして泣き出しそうな表情で、後を追った。



* * *



 宮殿から外に出て、敷地内を散策していると、ふいに懐かしい掛け声が聞こえてきた。

 思わず口角が上がる。

 周囲の草木をかき分け、そちらへ目を凝らした。


「一、二、三、四!」


 はたして、そこは軍の鍛錬所だった。

 ホルガーの眼前では、屈強な男たちが全身に汗をしたたらせ、素振りを行っている。

 奥には打ち合いをしている者たちもいた。

 その周りを二部隊ほどの人数が外周し、掛け声を上げる。


「国が変わってもやってることは同じなんだな」


 自部隊の面々が懐かしい。

 まだ数日しか経っていないはずなのだが、早くもあの場所が恋しかった。

 

「よし、まぜてもらおう」


 思い立ったが吉日と、立ち上がり、周囲に指示を飛ばしていた男の方へ近づいた。

 周囲の怪訝な視線は受けるが、帯刀していないためか、斬りかかってくる者もいない。


「あの」


 振り返った男は、訝しげに眉を寄せた。指先は剣の柄に触れている。


「なんだ。お前、何者だ」


 ホルガーは両手を上げ、敵意がないことを示した上で、名を名乗った。


「ダンラス王に世話になっているホルガー=ベルツという者だ」


 男は「あぁ」と納得した顔で、周囲に戻るように手を振った。

 危険はないと判断されたのだろう。


「王より伺っている。冥府の悪魔をこの城に留めたと。お前がそうか?」


 ホルガーは「冥府の悪魔」という呼び名にためらいを見せたが、結局「そうだ」と頷いた。


「しかしその名はあまり好きではない。できれば名で呼んでもらえると嬉しい」


 男は驚いたように眉を上げた。

 軍人にとって、その二つ名は誉以外の何物でもない。


「何故?」

「……誰も、悪魔になどなりたくないだろう」


 そう言って、ホルガーは困ったように、そして少しだけ悲しげに眉を下げた。

 男は面食らったように固まった。

 この男は、本当にあの、フレイローズ最強の軍人、ホルガー=ベルツなのだろうか。

 人々の噂や戦場での姿とあまりに噛み合わない。


「お前は戦場が嫌いだったのか?」

「……ああ」


 何だそれは。

 男の頭上には疑問符が浮かぶばかりだ。


「それなら何故退役しなかった? 何故戦場に出ていたんだ?」


 ホルガーは、じっと何かを考えているようだった。

 それから、ゆっくりと自分の気持ちをなぞるように言葉を発した。


「俺はただ、この手の届く範囲全ての人を――仲間を、家族を、国を、守りたかった。守るためには戦うしかない。そう思っていた。しかし――」


 そこでホルガーは眼前の男と視線を合わせた。

 困惑に揺れる、意思の強そうな瞳と。


「結局、戦いは何も解決してくれなかった。それに気付くまで、随分多くの犠牲を払ってしまった。俺はもう、何も奪いたくない」


 男は、驚きに目を見張っていた。


――人の心を持たない冥府の悪魔。


 そうではなかったのか。

 聡明な男には、ホルガーの迷いや葛藤が、手に取るようにわかった。

 彼が、誰より実直で心優しいということも。


 男は、ホルガーに向かって愛剣を投げた。

 泣き笑いのような複雑な表情だった。


「俺は、ウォルド=ゼノビア。退屈なんだろう。運動がてら打ち合おう、ホルガー=ベルツ」


 ホルガーは、草地に投げ出されたその剣を拾い上げた。

 赤い石の嵌まった美しい剣だった。


「借りていいのか?」

「構わん。ハンデだ」


 そう言って、ウォルドは演習用の複製剣を適当に拾った。

 ホルガーの頬が思わずほころぶ。


「そうか、ありがとう」


 ウォルドはまたきまり悪そうに顔をしかめた。


(何ともまぁ、気の抜けたやつだ)


 気を取り直すかのようにきつく剣を握り直し、構える。


「いくぞ」


 ホルガーもまた、何度か剣を握り直し、一度試し振りをすると、晴れやかな笑顔とともに構えた。


「あぁ、全力でいこう」


 二人を遠巻きに眺めていた兵たちが、緊張の面持ちで息をのんだ。






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