第九十一話 軍人ウォルド=ゼノビアとの出会い
緑色にきらめく蝶が、王宮の庭をのんびりと飛んでいる。
室内ハンモックに揺られ、真っ青な空を窓越しに見上げていると、南国特有の風が日よけをはたはたと揺らした。
「……暇だ」
果物を抱え、枕元に佇んでいた女性がびくりと肩を揺らす。
何せ相手はあの冥府の悪魔だ。
退屈しのぎに何をされるかわかったものではない。
しかしホルガーは、彼女の予想とは裏腹に、何とも穏やかな声色で口を開いた。
「あの」
「は、はい……」
「外に出てもいいだろうか。もし仕事の邪魔でなければ、どこか案内してもらえると助かるんだが」
まだ若い侍女は内心、「どうしよう」と狼狽えた。
王からは部屋から出すなと命じられている。
しかし今この男に逆らえば――。
数瞬の躊躇いの後、彼女はとうとう、王への忠誠を取った。
「な、なりません。部屋から出てはならないという王のご命令です」
心臓が早鐘を打つ。
くらくらとする視界の中、それでも、この恐ろしい悪魔から目が離せなかった。
すぐに怒り始めるに違いない。
きっと、助けを呼んでも間に合わないだろう。
ぎゅっと両手を握り、覚悟を決める。
しかし、ホルガーはただ一言、
「そうか」
そう言っただけだった。
暴れる気配も怒鳴り出す様子もない。
侍女はそろそろと視線を上げ、ホルガーを視界に収めた。
彼は数刻前と全く変わらぬ穏やかな表情で、「それなら君はここにいてくれ。ちょっとその辺を散歩してくる」と立ち上がった。
「な」
唖然とする侍女の横をスタスタと通り過ぎ、扉に手をかける。
扉の向こうに消える直前、「あぁ、心配はいらない」と付け加えられた。
「夕飯までには戻ってくるから、君が咎められることはない」
ばたん。
あくまで静かに扉が閉められた。
はっとした侍女は、ようやく自体を飲み込み、その場で叫んだ。
「な、なりません!」
そうして泣き出しそうな表情で、後を追った。
* * *
宮殿から外に出て、敷地内を散策していると、ふいに懐かしい掛け声が聞こえてきた。
思わず口角が上がる。
周囲の草木をかき分け、そちらへ目を凝らした。
「一、二、三、四!」
はたして、そこは軍の鍛錬所だった。
ホルガーの眼前では、屈強な男たちが全身に汗をしたたらせ、素振りを行っている。
奥には打ち合いをしている者たちもいた。
その周りを二部隊ほどの人数が外周し、掛け声を上げる。
「国が変わってもやってることは同じなんだな」
自部隊の面々が懐かしい。
まだ数日しか経っていないはずなのだが、早くもあの場所が恋しかった。
「よし、まぜてもらおう」
思い立ったが吉日と、立ち上がり、周囲に指示を飛ばしていた男の方へ近づいた。
周囲の怪訝な視線は受けるが、帯刀していないためか、斬りかかってくる者もいない。
「あの」
振り返った男は、訝しげに眉を寄せた。指先は剣の柄に触れている。
「なんだ。お前、何者だ」
ホルガーは両手を上げ、敵意がないことを示した上で、名を名乗った。
「ダンラス王に世話になっているホルガー=ベルツという者だ」
男は「あぁ」と納得した顔で、周囲に戻るように手を振った。
危険はないと判断されたのだろう。
「王より伺っている。冥府の悪魔をこの城に留めたと。お前がそうか?」
ホルガーは「冥府の悪魔」という呼び名にためらいを見せたが、結局「そうだ」と頷いた。
「しかしその名はあまり好きではない。できれば名で呼んでもらえると嬉しい」
男は驚いたように眉を上げた。
軍人にとって、その二つ名は誉以外の何物でもない。
「何故?」
「……誰も、悪魔になどなりたくないだろう」
そう言って、ホルガーは困ったように、そして少しだけ悲しげに眉を下げた。
男は面食らったように固まった。
この男は、本当にあの、フレイローズ最強の軍人、ホルガー=ベルツなのだろうか。
人々の噂や戦場での姿とあまりに噛み合わない。
「お前は戦場が嫌いだったのか?」
「……ああ」
何だそれは。
男の頭上には疑問符が浮かぶばかりだ。
「それなら何故退役しなかった? 何故戦場に出ていたんだ?」
ホルガーは、じっと何かを考えているようだった。
それから、ゆっくりと自分の気持ちをなぞるように言葉を発した。
「俺はただ、この手の届く範囲全ての人を――仲間を、家族を、国を、守りたかった。守るためには戦うしかない。そう思っていた。しかし――」
そこでホルガーは眼前の男と視線を合わせた。
困惑に揺れる、意思の強そうな瞳と。
「結局、戦いは何も解決してくれなかった。それに気付くまで、随分多くの犠牲を払ってしまった。俺はもう、何も奪いたくない」
男は、驚きに目を見張っていた。
――人の心を持たない冥府の悪魔。
そうではなかったのか。
聡明な男には、ホルガーの迷いや葛藤が、手に取るようにわかった。
彼が、誰より実直で心優しいということも。
男は、ホルガーに向かって愛剣を投げた。
泣き笑いのような複雑な表情だった。
「俺は、ウォルド=ゼノビア。退屈なんだろう。運動がてら打ち合おう、ホルガー=ベルツ」
ホルガーは、草地に投げ出されたその剣を拾い上げた。
赤い石の嵌まった美しい剣だった。
「借りていいのか?」
「構わん。ハンデだ」
そう言って、ウォルドは演習用の複製剣を適当に拾った。
ホルガーの頬が思わずほころぶ。
「そうか、ありがとう」
ウォルドはまたきまり悪そうに顔をしかめた。
(何ともまぁ、気の抜けたやつだ)
気を取り直すかのようにきつく剣を握り直し、構える。
「いくぞ」
ホルガーもまた、何度か剣を握り直し、一度試し振りをすると、晴れやかな笑顔とともに構えた。
「あぁ、全力でいこう」
二人を遠巻きに眺めていた兵たちが、緊張の面持ちで息をのんだ。




