第九十話 王都の民
「レインヴェール伯が人質に取られたというのは本当なのですか!?」
スノウとハルが王宮に戻ると、真っ先に宰相が駆け寄ってきた。
顔を青くした侍女、顔をしかめた近衛兵。
城中が慌ただしく、どこか戦時のような緊張感が漂っている。
「……落ち着きなさい。ルイとオルトはどこにいるの」
「若草の間に。スノウ殿下、どうか皆にご説明を! 私ではもう彼らを御しきれません」
「それは二人に話を聞いてからだよ」
ふわり、とハルが宰相の肩に手を置く。
その春風のような声に、周囲の空気が一瞬のうちに和らいだ。
「皆も、落ち着いて。大丈夫だよ。スノウ殿下が何とかしてくださるからね」
ハルの微笑みに、侍女はもちろん、近衛兵も高官も、誰もが息をつき、惚けた。
何故だか本当に大丈夫だという気がしてくる。
何の根拠もないというのに。
「おたくのお坊ちゃんは稀有な人誑しですな」
アーノルドが茶化すと、サクラスが苦笑した。
「冗談言ってないで、さっさと行くわよ」
「はいはい」
さっと身をひるがえし、若草の間へと向かう。
皆、先ほどより幾分安心した顔をして、各々の仕事へ戻っていった。
速足で廊下を進むスノウは、道中、ハルにのみ聞こえる程度の声で囁く。
「……助かったわ」
そのぶっきらぼうな感謝の言葉に、ハルは小さく笑った。
* * *
「ルイさま! オルトさま!」
私たちが案内された若草の間に駆け込むと、室内には既にスノウ姉さま、ハルさま、ハントさまにアスラさま、マシューさまも揃われていました。
悄然とした表情で俯くルイさまとオルトさま。
その正面で、皆さまも険しい表情で腕を組まれています。
「……ルコットちゃん」
「本当なのですか」
頭が働くより先に、唇が動きます。
ほとんど無意識に、私はルイさまに詰め寄っていました。
「本当、なのですか。ホルガーさまが、お一人で……」
ルイさまは今にも泣きだしそうな表情で眉を寄せられると、乾いた声で囁かれました。
「……本当だよ」
言葉が出てきませんでした。
どうして、そんなことに。
彼は無事なのですか。
頭の中をたくさんの疑問が回って――それなのに、喉が震えるばかりで、うまく考えがまとまりません。
そのとき、後ろから、ぽん、と肩が叩かれました。
反射のように振り向くと、そこにはヘレンさんと、リリアンヌさま、ターシャさまが立っていました。
「落ち着きなさい、ルコット」
ヘレンさんの力強い声に、はっと我に帰ります。
リリアンヌさまが一歩前に出で、強く私の手を握りました。
「今あなたが取り乱して、一体誰が彼を助けるの」
「そうですよ、ルコットさん」
ターシャさまの優しい声にも決意が混じっています。
隣のエドワードさんもまた、「その通りです」と冷静に仰いました。
「もっとも、あなたさまが取り乱されるのは、旦那さまが絡んだときだけだと、わかってはいるのですがね」
にやり、と意地悪なお顔で微笑むエドワードさん。
私はここにきてようやく、少しだけ冷静になれた気がしました。
「……ええ、そうですわ」
エドワードさんがきょとんとされます。
赤くなって誤魔化すと思われていたのでしょう。
他の方々も目を丸くされています。
でも、構いません。
だって、もう、自分の気持ちを誤魔化すのはやめようと決めたのですから。
「彼は、私の逆鱗ですわ。――絶対に、傷つけさせはしません」
ぽかんとされるルイさま、オルトさま。
いえ、お二人だけでなく、まるで時間が止まってしまったかのように、皆さま唖然とされていました。
ハントさまだけが、懐からハンカチを取り出し、そっと額の汗を拭われています。
「……絶対にルコットちゃんだけは怒らせないようにしよう」
「……恋する乙女は強いね」
一体どういう意味でしょう。
私が問い返す前に、お姉さまが心底可笑しいと言わんばかりに笑い出されました。
それから、不敵に、静かに、口角を上げられます。
「ええ、必ず取り返すわ。……首を洗って待っていなさい、ダンラス王」
アスラさまもまた、立ち上がられ、「やるぞー!」と腕を回されました。
「……この国の女性はたくましいね」
「……一部の方々は特にね」
活気の戻った室内で、ハルさまが穏やかに口を開かれます。
「さて、それじゃあ、作戦を練ろうか。正攻法では戦争になってしまうから、あくまで穏便に。ね、ターシャ姫?」
視線を向けられたターシャさまは意外そうな顔をされます。
「まさかあなたがそんなことを仰るなんて。すっかり牙を抜かれてしまったのですね」
そしてどこか嬉しそうに笑われました。
「ええ、こんなときのための同盟国です。すぐ父に手紙を書きましょう。じきにフュナ姫とシス皇子もいらっしゃるでしょうし」
そのとき、バタンッと重厚な扉が荒々しく開かれました。
さすがのお姉さまも驚き、慌てて振り向かれます。
そこにいらっしゃったのは、息を切らした宰相さまでした。
「皆さま! 大変でございます! 民が、噴水広場に!」
* * *
「悪名高いダンラス王が、我らの英雄ホルガー=ベルツ大将を人質に取った! 我々は、断固としてこれを許してはならない!」
王城のバルコニーから噴水広場を見下ろされたお姉さまは、顔に手を当て深いため息をつかれました。
「また面倒なことになったわね」
「言ってる場合ではございません。民がエメラルドに攻め入る前に、何とか怒りを押さえ込まなくては」
お姉さまは「はいはい」と手を振られると、私の方を振り向かれました。
「行くわよルコット」
え?
そう問い返す間も無く、お姉さまに手を引かれた私は、気づくとバルコニーの上にいました。
遥か階下には、数え切れないほどの人々が、じっとこちらを見つめています。
先ほどまでの演説も止み、しんと辺りが静まり返りました。
「皆、よく聞きなさい」
不安げな民一人ひとりに聞かせるように、お姉さまは全体を見渡されます。
「憎しみに任せて力に訴えてはいけません。皆知っているはずです。かのレインヴェール伯が、誰より平和を望んでいることを」
鋤や斧を掲げていた人々が、顔を見合わせ、やがてそろそろと武器を下ろしました。
「焦る気持ちはわかります。しかし、今はまだ、時間が必要です。十全に、安全に、彼を救い出すだけの時間が」
そして、お姉さまは私に目配せされました。
「安心なさい。我らが英雄ホルガー=ベルツは、私たちが、必ず取り戻します」
お姉さまに促され、私は一歩前に出ます。
自分の言うべきことはもう、わかっていました。
「……皆さま、どうか、私に彼を救うだけの時間をください。……私に、愛する人を、守らせてください」
* * *
広場から散り散りに帰って行く民衆の中、一人の少年が母親の顔を見上げ、首をかしげた。
「ねぇ、お母さん、どうして笑ってるの?」
よく見ると、周囲の人たちもまた、どこか嬉しそうだ。
母親は、「あなたにはまだ早いかなぁ」と歌うように呟くと、王城のバルコニーを振り返った。
「ようやく春が来ると思うとね」
「……もうとっくに春なのに。変なの」
母親はくすりと笑うと、「そうね」と少年の手を引いた。




