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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第八十九話 心が決めること


――レインヴェール伯とその兄弟が、単独でエメラルドとの交渉に向かったわ。私も今からハルと後を追います。あなたは何も心配しなくていいわ。こちらのことは任せておきなさい。


 私は、呆然とその手紙を見つめていました。

 朝日の刺す窓辺は暖かいはずなのに、体が深々と冷えていきます。


 南国エメラルド。

 数年前まで剣を交えていたかの国に、まさか兵も連れずに赴くなんて。


「……危険だわ」


 ともに朝食をとっていたばあやの視線がすっと上がります。

 私は縋るようにばあやを見つめましたが、何も言葉が出てきません。

 それでも、ばあやは何かを察しているようでした。


「行かないのですか?」


 どこに?

 決まっています。彼の元に。

 足はもう既に走り始めているかのようにおぼつかなく、頭の中に浮かぶのは、長い間封じ込めていた彼の笑顔ばかり。

 ですが――足はその場に縫い付けられたかのように動きませんでした。


「……だって」

「はい」

「私たちはもう、夫婦じゃありません」

「存じています」

「他人なんです」

「そうですね」

「なのに駆けつけるなんて、おかしいでしょう」

「そうかもしれません」


 でも、とばあやは続けました。


「今を逃すともう二度と、彼に会えなくなるかもしれませんよ」


 その言葉は、私の働かない頭を、ガンッと強く打ちました。


 もう二度と会えなくてもいい。

 言葉を交わせなくても構わない。……彼が、元気でいてくれるなら。


 何度も何度も擦り切れるほど胸の中で繰り返した言葉です。

 この想いがあったからこそ、私は彼を吹っ切ることができたのです。そのはずでした。それなのに――


「姫さま、涙を」


 眼前に差し出されたハンカチに、ぽたり、と雫が落ちました。


――彼が危ない。


 そう思うだけで、こんなにも、想いがあふれる。

 どうしようもなく涙がこみ上げて、いてもたってもいられない。

 結局私の中には、いつだって、彼の存在があったのです。


「姫さま、大切なことは頭で考えてはいけません。ご自身の心で決めるのです」


 私の心。

 それは何年の時を経ても、彼だけを見つめていました。

 彼の背中を、横顔を、そして笑顔を、誰より愛しく、大切に想っていました。


「……ばあや、私」


 この決断はきっと、彼とって喜ばしいものではない。

 そうわかっているのに、私の心はここ数年で、一番すっきりと晴れ渡っていました。

 私はようやく、私の答えを見つけたのです。


「……彼に、会いたい」


 そのとき、部屋の隅にある通信魔水晶が、強い光を放ちました。


「ルコットちゃん!」


 響いてきたのは、聞いたこともないほど切羽詰まったハントさまの声。


「大変だ! 急いで王都に来ておくれ!」


 私は一瞬の迷いの後、「わかりました!」と叫ぶとエドワードさんとヘレンさん、アサトさまを呼びに、扉の外へ飛び出しました。



* * *



 南部の転移施設を抜け、エメラルドへと密林を急いでいたスノウとハルの頭上を、一羽の吟遊魔鳥が飛びすさって行った。


――『俺が、人質になりましょう』

   哀れ若き陸軍大将は、愛する人の願う未来のため、自らその身を差し出したのでした。


「……遅かったか」

「やはり、そうなったのね」


 スノウは悔しげに、吟遊魔鳥を見送った。

 ハルもまた、冷えた目で何かを思案している。


「今からでも、僕らで交渉しに行こう」

「……そうね。勝率は五分といったところだけど」


 二人が再び歩き始めると、スノウの通信魔水晶が眩い光を放った。

 応答を待たず、焦った宰相の声が響いてくる。


「スノウ殿下、ハル王子、至急王都へご帰還を!」


 彼の背後に人々のざわめきがノイズのように聞こえてくる。

 多くの者が彼の元に詰めているのだろう。

 何事かと目を見開くスノウに、宰相は涙声で訴えた。


「王都は大混乱です!」



* * *



「ねぇ、ルコット、どうすると思います?」


 壁に寄りかかり、窓の外の朝日を眺めながら、ヘレンはぼんやりと呟いた。

 忙しく立ち働いていたエドワードは振り向くことなく言葉だけを返す。


「さあ、どうでしょう。それよりあなたたち、何故私の部屋に来るんです」


 ヘレンの側にはアサトも控えていた。


「何だかいてもたってもいられなくて。私にとっても、ホルガーさんは恩人みたいなものですし」

「……右に同じです」


 エドワードは「そうですか」と素っ気なく返すと、また作業に戻った。


「もう、本当に冷たいですね。そんなんだから『冷血漢』って言われるんですよ」


 エドワードは「望むところですよ」と鼻で笑うと、窓から伝書鳥を飛ばした。

 アサトが不思議そうに、朝日の向こうに消えた鳥を見つめる。


「今のは、どなたに?」

「リリアンヌ嬢とターシャ姫にですよ」


 ヘレンが首を傾げる。


「何て送ったの?」

「『もう準備は整いましたか』と」

「……何の?」


 ヘレンが訝しげに尋ねると、エドワードはようやく二人に視線を向けた。


「お二人も、もう準備は済んだんですか?」


 ぽかんとする二人に、エドワードは不敵に笑う。


「……そういえば、エドワードさん、さっきから一体何をしてるんですか?」

「何って、荷造りですよ」


 そこに来てようやく、アサトの目が見開かれた。


「……まさか」


 そのとき、階上から慌てて駆け下りてくるルコットの足音が聞こえてきた。


「ようやくいらっしゃいましたか」

「……まさか、ルコットが行くってわかってたんですか」


 ヘレンの確信めいた質問に、エドワードは「ええ」と笑う。


「こんな状況で、彼女がじっとしていられるはずがないでしょう」


 ルコットが駆け込んでくるまで、あと十秒。

 エドワードは朝焼けに隠れ、再び彼女の時が動き出した予感に小さく微笑んだ。


「それでこそ、ルコットさまです。……まだ、少し妬けますが」


 誰にも届かない程度の声でそう呟くと、「さて」と立ち上がる。


「それじゃあ、出発しましょうか」


 本日のダヴェニスの街は、朝の爽やかな風に吹かれ、きらきらと輝いて見えた。





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