第八十八話 交渉開始
「つまり、私たちは貴国に何の要求もしていないのさ」
まるで舞台俳優のようだ。
我が兄のことながら、そう、ホルガーは内心舌を巻いていた。
海と宝石の国、南国エメラルド。
その絢爛豪華な宮殿に、彼らはいた。
眼前には、贅を尽くした玉座が。
そこに座す褐色の美しい王は、身振り手振りで語り続けるルイをじっと睨んでいる。
「もうその話はよい。聞き飽きた。そこの、『二度と我が国に足を踏み入れるでない』という余の言葉を忘れたか」
鷹のような目に射抜かれたホルガーは、どうしたものかと逡巡した後、結局開き直ることにした。
「『わかった』と答えた覚えはありませんので。俺たちにも退けぬ理由があるのです」
「……ほう」
にやり。
不敵に、王が嗤う。
下手を踏んだか、とホルガーは身構えたが、そこに助け舟を出したのはオルトだった。
「お待ちください、ダンラス王。この状況を何ともお思いにならぬのですか?」
「この状況?」
途端に王の表情が訝しげなものとなる。
「どういう意味だ?」
王の問いを受け、オルトは粛々と見解を述べた。
「我々三名は丸腰でやって来たのです。今あなたが守備兵に命じれば、命はないでしょう。……どう見ても、私たちに貴国を害する意思はありません」
周囲を囲んでいた守備兵が顔を見合わせる。
「確かに」
「その通りだ」
そんな囁き声も聞こえてきた。
しかし、肝心の王はピクリとも表情を変えず、冷静に二度瞬きした後、厳かに口を開いた。
「……確かに、お前とそこの色男はそうだろう。しかし、この男――ホルガー=ベルツは違う」
周囲の者の目が、ざっとホルガーに向けられる。
それをホルガーは静かに受け止めた。
「なぁ、冥府の悪魔、正直に答えよ。……今、この場にいる三百名、同時にお前に斬りかかったとしたら、お前の勝率は何割だ?」
一拍、二拍、沈黙が落ちる。
重々しい沈黙の後、ホルガーはようやくこう答えた。
「……五割ほど、でしょうか」
途端にダンラス王は弾かれたように笑い始めた。
心底おかしいと言わんばかりに背を曲げ笑っている。
周囲は何がおかしいのかまるでわからなかったが、笑いがおさまるまで嫌な緊張感が場を支配していた。
ようやく常の落ち着きを取り戻した王は、ゆるゆると頭を振り、「謙遜するな」と小さく呟く。
ホルガーが問い返す間も無く、今度は謁見の間に揺るぎない声が響いた。
「十割だ」
ざわり。
この場全ての者に鳥肌が立つ。
王の声は確信と妬心に満ちていた。
「何人束になろうとも、我が国にお前に勝てる者はいない」
両者は静かに見つめ合う。
ホルガーの瞳は依然として凪いでおり、王の眼は燃えたぎる熱量に細められた。
誰もが背景となり果て、息を呑み、成り行きを見守る。
そこに、場違いなほど明るい、朗らかな声が響いた。
「……しかし、愚弟に貴国を害する意思はない」
射抜くような視線を、ルイは柔和な表情で受け止め、唖然とするホルガーを覗き込んだ。
「そうだろう?」
「あ、あぁ、もちろん」
我に帰ったホルガーは、勢い込んで頷く。
ルイはそれを見て、満足げに笑った。
「本当は、貴国に限らず、こいつは誰も傷つけたくないのさ。……なあ王さま。エメラルド始まって以来の賢王と謳われるランダス王よ。貴殿は嘘をついている人間とそうでない人間の見分けさえつかないのかい?」
歌うように言葉が流れ出る。
しかしその言葉は決して軽くはなく、聴くものの胸に想いを訴えかけてくる。
ホルガーの生来の優しさを、誰より信じる兄の言葉だからだろうか。
ランダス王は、眉間に深いシワを刻んだ。
「……確かに」
守備兵は、固唾を飲んで王の玉音の続きを待った。
「……そなたらに我らを害する意思はないのだろう。そやつが血に飢えた戦闘狂でないことくらい、余にもわかる」
「では……!」
オルトの訴えを、ランダス王は目で制した。
「しかし、過ぎた力は兵器と同じだ。そやつはたった一人で国を滅ぼす力を秘めている。存在そのものが危険なのだ」
「……人の弟を兵器呼ばわりとは、随分ですね」
「だが、事実だ」
ホルガーは静かに俯いた。
無意識に手を開き、ごつごつとした硬い手のひらを見つめる。
王はその様子を、どこか複雑な表情で見下ろしていた。
「……故に、条件がある」
ぱっとホルガーは顔を上げた。
再び二人の視線が交わる。
ランダス王は目の色一つ変えずにこう言った。
「その男、冥府の悪魔を我が国に引き渡すなら、交渉に応じてやろう」
その瞬間、ルイとオルトの目に怒りの色が浮かんだ。
「ホルガーは私たちの弟です。家族を交渉の材料にするはずがないでしょう!」
「冗談にしてもナンセンスだよ。それは私たちの逆鱗だ」
周囲の温度がすっと下がる。
その気迫に、守備兵の背中を冷たい汗が伝った。
しかし王だけは、全く動じた様子を見せなかった。
「冗談ではない。余は本気だ」
空気が微かに振動する。
ルイとオルトはギリッと歯噛みした。
「そこの冥府の悪魔が、我が国民となり、二度と故郷の地を踏まぬと約束するなら、申し出に従おう。何、悪いようにはせぬ。この宮殿で生涯静かに暮らすがよい」
「……ふざけるな」
「愚問だ!」
柄にもなく殺気立ったオルトとルイを無視し、王は直接ホルガーへと問いかける。
「どうする?」
しばらくの間、ホルガーは茫然としていた。
葛藤、迷い、思い出。その全てが、体中を吹き回る。
その中で秤にかけられていたのは、故郷への思いと、彼女の願いと、それから――
王は急かすことなく悠然と、彼の出す結論を待っていた。否、自ずからその結論を悟っていたのかもしれない。
とうとう、ホルガーの表情が、まるで糸が切れたかのように和らいだ。
それは諦めにも、決意にも、後悔にも似ていた。
「わかりました」
誰もが耳を疑った。
うそだろ。
声にならない呟きが、兄弟の口からこぼれる。
しかしホルガーの瞳はただ、眼前の王にのみ向けられていた。
「俺が、人質になりましょう」




