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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第八十七話 エメラルドとの交渉


「さて、そろそろ行かねばならないようだ」


 波打つ黒髪の男は、軽やかに立ち上がった。

 長い前髪のすき間から、たれ目がちな甘い容顔がのぞく。

 酒場の女性たちは一斉に不満の声を上げた。


「まだまだ夜は長いじゃない」

「そうよ、私たちを置いて行くなんてひどいわ」


 妖艶な美女たちの腕を潜り抜け、男は「すまないね、また今度」と笑う。


「何よ、女?」

「はは、そんなんじゃないよ」

「じゃあ、一体どこに行くのよ」


 男は振り返ると、先ほどよりどこか嬉し気に微笑んだ。


「いやなに、弟に呼ばれているんだ。お兄ちゃんが助けに行ってあげないと」


 長身の優男は、宵闇に一歩を踏み出しふわりと歩みを進める。

 道行く者は皆その姿に惹きつけられ、釘付けになっているが、慣れているのか気にもしていないようだ。


 彼は、ルイ=ベルツ。

 フレイローズ国外務大臣の右腕であり、ベルツ家の長兄である。



* * *



「財務長官さま、しばらくお暇をいただけますか」


 がたり、と席を立った男に、長官は怪訝な視線を向けた。


「また里帰りか? あまり王都を離れてほしくはないのだがなぁ」

「いえ、南部に行ってまいります」


 脈絡のない申し出に、長官はぽかんと口を開く。


「何、南部に?」

「はい」

「一体、何をしに行くのだ?」


 モノクル越しの目が不思議そうに瞬かれる。

 黒い短髪の細身の男は、生真面目に襟を正した。


「弟を助けに」

「弟君……ホルガーくんを、南部に?」


 途端に、長官の眉間にシワが寄る。


「危険ではないのか? 南部は治安も良くない」

「多少の危険はあるでしょう」


 「心配ない」と嘘をつけないところが、この融通の利かない男らしかった。

 長官は諦めとともにため息をつく。

 この男はとにかく頑固で堅物なのだ。

 自分の信念を曲げることは決してない。

 そこが信用に値する部分ではあるのだが。


「……わかった、外出を許可しよう、オルトくん」


 無表情な男の口角が少し上がる。

 どうやら表情の変化に乏しい男であるらしい。


「感謝します、長官」

「無事に帰ってきなさい。そなたには私の後を任せるつもりなのだから」

「……そのお話は、またいずれ」


 曖昧に茶を濁し、それ以上追求されぬうちにと急いで席を立つ。

 背中に「こら、待ちなさい!」という声を聞きながら、男はマイペースに廊下を進み、南国エメラルドに想いを馳せた。


「……どう旅費を節約しようか」


 冥府の守銭奴、オルト=ベルツ。

 その類まれな几帳面さと数的センスで、シュタドハイスの財務管理を担い、片手間に国庫も守っているベルツ家の次兄である。

 王侯からの信頼も厚く、涼やかな目元が子女たちを賑わせている稀有な人物だが、残念なことに、当人はそんなことにはまるで関心がなかった。

 目下の目標は、鉄道計画の帳簿を完成させることだ。


 ちなみに、彼の二つ名は、国庫を食い潰さんと画策した悪漢が、牢の中でひどく憔悴しながら発した言葉だった。

 おかげでフレイローズの国庫金は今日も平和である。



* * *



「サクラス、父上にはもう手紙を出してくれた?」

「はい、ハル殿下」


 白茶シルバーブラウンの頭を下げ、雪国の騎士は生真面目に頷く。

 ハルはそれを見るとどこか寂しげに苦笑した。


「ねぇ、今更なんだけど」

「はい」


 頭を上げ、今度はひたりと目が合わせられる。

 この男はいつもそうだ。

 いつだって実直で使命に忠実で、主人を守る騎士の矜持を忘れない。


「私は生涯彼女の傍にいたいと思う」

「はい」

「……お前は、どうしたい?」

 

 騎士としてではなく、一人の人間として。

 この先の人生をどう生きたい?

 遠いこの異国にとどまる必要はない。

 望むなら、故郷へ帰る手筈も整えられる。


 二人の間にしばしの間沈黙が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、サクラスの、常と変わらぬ落ち着いた、愛情深い声だった。


「……私には、昔からただ一つだけ、夢がありました」


 ハルの目がきらりと光る。

 この従者の望むことならどんなことでも叶えてやりたい。

 その目は口よりも雄弁に、そう物語っていた。


 それを見て、サクラスはいっそう深く微笑んだ。


「あなたさまの、幸せな未来です」


 弟にも息子にも似たこの主人に、いつか温かな幸せを。

 それはかつて雪刃の騎士と呼ばれたサクラスが、初めて抱いた人らしい夢だった。


「私は、あなたさまのその笑顔を守り続けたい」


 その決意は本物だった。

 思い込みでも盲信でもなく、それは、彼自身の意志だった。


「スノウ王女には、私も感謝しているのです」

「……そっか」


 その言葉に、ハルはようやく息をつくことができた。

 幼い頃からずっと共に暮らしてきたのだ。

 ハルにとっても、サクラスは兄のようなものだった。

 離れて暮らすのは少し……否、かなり寂しくなると覚悟していたから。


「これからも、よろしく頼むよ」


 そう肩を小突くと、サクラスもまた何のしがらみもない笑顔で眩しく笑った。


「はい、ハルさま」


 そのとき、取次の侍女たちがにわかにざわめいた。

 何事かと尋ねる間も無く、勢いよくドアが開かれる。


「ちょっと! いつまで待たせる気よ! 早く出発するわよ!」


 そこには少々不機嫌なスノウが立っていた。

 すでに旅装に身を包み、片手に旅行鞄を提げている。

 その後ろを、アーノルドが慌てて追ってきた。


「スノウさま、困りますよ。荷物は俺に持たせてくれないと」


 ハルとサクラスは顔を見合わせ、くすりと笑い合った。

 賑やかで、鮮やかで、退屈する暇もない。これ以上なく幸せな日常だ。


「さて、じゃあ、この幸せを届けてくれた恩人に、恩返しに行くとしようか」

「ルコットさま、お元気でしょうかね」


 二人が歩み出ると、スノウがハルの手をぎゅっと握る。


「ほら! 行くわよ!」

「はいはい、焦らないで。君はせっかちなんだから」


 主人の後を歩きながら、今度は従者二人が顔を見合わせた。


「お互い、苦労しますな」

「いや全く……まぁ、でも、そんな苦労も、あの二人の笑顔を見てるとどーでもよくなるんですがね」


 全くその通りだと、サクラスは明るい春の空を見上げた。





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