第八十六話 魔導師団員の授業
「この二千百ロンを七人で分けたら、一人いくらになるでしょう? はい、エリカ」
「えっと……三百ロン?」
「正解! じゃあ、この黒板の問題を解いておいて。質問があったらナニーさんに。私は中等部に行ってくるから。二十分後に戻るわ」
赤い髪の魔導師団員カタリナさまは、そう言うと急いで廊下に出られました。
初等部の子たちは慣れた様子で「はーい」「行ってらっしゃーい」と見送っています。
私も慌てて後を追いました。
「いつもこんな感じなのですか?」
「ええ、何せ教師は二人で教室は四つですから。ですが皆さんのおかげで割と何とかなっていますわ」
カタリナさまはその後、ノルドさまと入れ替わりに中等部に入られ、初等部に戻り、最後に高等部で授業をされました。
陽が傾き、生徒の皆さんが元気よく帰っていくのを見送ると、すぐに教員室で明日の準備が始まります。
「教科書が送られてきてからはだいぶ楽になったんですけどね」
黒髪のノルドさまが苦笑されると、カタリナさまも「そうね」と指を振られます。
すると、白紙の紙束に、問題文が目にも留まらぬ速さで浮き出しました。
「今ほど魔法が使えて良かったと思ったことはないわ」
「まったくだ」
すっかり日が暮れた室内に魔術で光を灯し、合間にホットサンドをかじりながら、明日の準備は続きます。
全ての作業がようやく完了したのは、月が空高く昇ってからのことでした。
「ふぅ、今日は早かったわね」
「えぇ、ルコットさんのおかげです。お手伝いありがとうございます」
「いえ、大したことはしていません」
腕を伸ばしたり、肩を叩いたりしながら、互いの労をねぎらい合います。
軍属のお二人にも、さすがに疲労の色が見えるかと思ったのですが、予想に反し、その瞳はどこまでも明るいものでした。
「あの……カタリナさまとノルドさまは、辛くはないのですか?」
温かい紅茶を片手に、カタリナさまは「辛い?」と聞き返されます。
ノルドさまもまた、ぽかんとされていました。
「日中あれほど忙しいのに、毎日こんなに遅くまで作業があって……それでなくとも、全国初の学舎で困難も多いのに」
そこまで言ってようやく、「あぁ、そういうことですか!」と得心されたようでした。
「すみません、『辛い』なんて考えたこともなかったので」
予想外のお言葉に、今度は私の口が開く番でした。
「え、本当ですか」
「本当ですよ」
お二人は可笑しそうにくすくす笑われています。
「この程度で根を上げていては師団長の部下は務まりません」
――ルコットちゃん、今日は水の魔石を探しに、滝壺へ行こう!
いつも楽しげな師匠が脳裏に浮かび、私は内心深く頷きます。
ハントさまの元では心身ともに丈夫にならざるを得ないのかもしれません。
「それは確かにそうかもしれませんが……」
「それに、私たちは立候補してここへ来たのですよ?」
それもすでに伺っていました。
元々ノルドさまはここテス村、カタリナさまは隣村のご出身なのです。
幼い頃魔力持ちだと発覚し、アスラさまのように軍に連れて行かれたのだとか。以来十年以上、故郷を離れ、国のために戦われてきたのだそうです。
「特に不満はなかったんですよ。びっくりするような謝恩金も貰って、充分な教育も受けさせてもらって。お給料もそりゃ良かったですし。何より、仲間たちが大好きだった」
「もう故郷に未練なんてないと思っていたの。でも、今回の応募を聞いた瞬間――」
眼前に懐かしい故郷の森が広がった。
駆け回った山野。川のせせらぎ。
そして、すっかり大きくなっただろうきょうだいと、老いた両親。
忘れかけていた生家の小さな屋根。
「思い出したらいてもたってもいられなくなってしまって、結局帰ってきてしまいました」
「とはいえ、最初は不安もあったんですよ。『軍人の私に先生なんて務まるのだろうか』と」
教育学を一から学ばれ、大学で実習を行い、息つく暇もなく学舎は稼働を始めました。
せめて予定を一年後ろ倒しにしようという案も出ていました。
しかしそれを拒み、「あくまで最短で稼働開始」を強く推されたのは、他でもないお二人だったのです。
お二人のお言葉を、私は今でも覚えています。
――確かに付け焼き刃かもしれない。でも、そこには開校を待ち望んでいる人たちがいます。
――二十年前のあの日、泣きながら学んできたことが、今、誰かの役に立つのです。どうか、開校の許可を。私たちにはすぐにでも走り出す覚悟があります。
場内に割れるような拍手が響きました。
その決意の固さに、保守派の方々でさえ寄付金を倍額にされたそうです。
「この国は、着実に変わっていますよ、ルコットさま」
そう仰ったサイラス=クリスティさまの表情は、朝焼けに目を細める少年のようでした。
魔導師団の中には、お二人に続き教師になりたいという方がたくさんいらっしゃるそうです。
全国開校に向け、既に教育を学ばれているのだとか。
「一年後には、彼らも故郷に帰れるのだと思うと、嬉しくて」
「魔力持ちである私たちが、自らの意思で未来を決められるようになったのです。それがどれほどの奇跡か、ルコットさまならおわかりになるでしょう」
私は一年後の世界を想像しました。
ティルナノーグ号に乗り、懐かしい故郷へ帰る魔術師の皆さまを。
夢のまた夢だと思っていた未来が、もうすぐそこにあるのです。
「鉄道の試運転も始まったのですよね」
「はい、とても順調のようですわ」
あれから、この国の総力を挙げて鉄道作りは進められました。
魔術師、技術者、学者、武器屋、防具屋、大工、家具屋、あらゆる分野の専門家が結集。
研究はときに難航しながらも、驚くべき早さで実を結びました。
私が言葉を失っていると、サファイア姉さまが「何を驚いているのよ」と笑われました。
「あの面子で作れない物は、神様だって作れっこないわよ」
そして今現在、ティルナノーグ号は全国に張り巡らされたレール上をすいすいと試運転しています。
ハントさまいわく、
「私の魔力をはじめ、あらゆる加護を練り込んである。意匠も古代の魔術紋だ。今やあそこは、『世界一運の良い場所』だよ。たとえ世界が滅んでも、ティルナノーグ号だけは生き残るだろうね」
とのことでした。
……きっと、ハントさまの凝り性が出てしまったのでしょう。
フュナさまが「ハントさまは本当に偉大な魔術師だったのですね」とうそぶかれていました。
「失礼だな、君は」
そう笑われたハントさまは、少しだけ誇らしげに見えました。
* * *
「大将、ハームズワース公爵家が、ついに協力を申し出たそうです」
南部特有の湿度の高い空気が窓から吹き込む。
この地に自生している巨大な花のためか、呼吸しているだけで皿いっぱいのケーキを食べたような気持ちになった。
南国エメラルドとの国境。
その高台に、陸軍最南端基地は厳めしく聳えていた。
臨時執務室に腰掛け、ホルガーは「そうか」と難しい顔で頷く。
本来なら諸手を挙げて喜びたいところだが、今はそうも言っていられなかった。
「大将、あんまり悩みすぎると禿げますよ」
報告に駆け込んだ若い隊員に肩を叩かれ、ホルガーは深いため息をつく。
「そうは言うが……一体どうしたものか」
「仕方ないですよ。何せエメラルドとは数年前までドンパチやってたんですから」
「そうですよ。他の三国とは確執の度合いが違います」
「銃で追い返されなかっただけマシだと思いましょうよ」
ここにきて、エメラルドとの交渉は難航していた。
「確かに和平は申し入れたが、隷属を受け入れたわけではない」
「我が国の子どもたちをフレイローズに通わせるなど、進んで人質を差し出すようなものだ」
始めから警戒心むき出しにそう跳ね返されてしまったのだ。
「そうではない」
「この案は、この大陸全土の未来のためだ」
そう、いくら言葉を尽くしても無駄だった。
結局逃げ帰るように南国を後にし、現在、国境沿いの基地に留まり、頭を悩ませている。
「俺たち軍人が行ったのが良くなかったのかもな」
「この分じゃ何度訪ねても無駄だろうし」
「むしろ余計に怒らせるだけじゃないか?」
ホルガーは自身の姿を見下ろした。
いかにも軍人然とした武骨な風貌だ。
この姿が、先の戦いを思い起こさせたのだとしたら。
「……助っ人を、呼んだ方がいいかもしれないな」
どこか苦々しげに、ホルガーはそう呟いた。




