第八十二話 紫群青の天才
「それじゃあ夕食前に、鉄道車両について……」
とある夕刻。
スノウ姉さまの私室で、お姉さま、ハントさま、マシューさまと四人、向かい合うようにソファーに腰掛け、話し始めた、ちょうどそのときでした。
――コンコンコン
控えめに扉がノックされました。
一体どなたがいらっしゃったのでしょう。
戸口の方を見ると、取次の侍女の方々が、にわかに色めき立っているようです。
「スノウさま、エドワード=ハームズワースさまがお取次をと」
「え!?」
実はここ数日、エドワードさんを全くお見かけしていなかったのです。
ヘレンさんは「心配いらないわ」と仰っていましたが、ずっと気にかかっていたのでした。
私が扉に駆け寄る前に、お姉さまが「通しなさい」とお命じになります。
程なくして、数日ぶりに会うエドワードさんが姿を現しました。
「エドワードさん、何故ここへ?」
私が目を丸くしていると、その表情が面白かったのか、愉快そうにくすくす笑われます。
「ルコットさま、朗報をお持ちしました」
「朗報、ですか?」
ここ数日どこへ行っていたのか、きちんと休んで食べていたのか、聞きたいことは山ほどありましたが、エドワードさんが勢い込んで来られるなんて余程のことでした。
お姉さまたちも、「鉄面皮のあんな顔は初めて見る」と驚かれています。
鉄面皮は言い過ぎだと思うのですが、今のエドワードさんはまるで少年のようでした。
「ルコットさま、国内の大学に、『教員養成学科』が設けられる運びになったのです」
「教員、養成……?」
突然の耳馴染みのない言葉に茫然としていると、お姉さまが頬を紅潮させて立ち上がられました。
「それは本当なの!?」
エドワードさんは、「はい、スノウ殿下」と先ほどより幾分冷静に腰を折られます。
しかしその声には、抑えようのない喜色が滲んでいました。
じわじわと、頭の中に意味が入り始めます。
教員養成学科、それはつまり――
「教員不足の現状を、打破できる、ということですか……?」
まだ信じきれない私に、エドワードさんはきらきらした瞳ではっきりと頷かれました。
「はい、その通りです。現在の学問的な教育学科とは別に、新たに教師を目指すための学科が創設されるのです」
その学科でなら、教師として必要な知識、技能を画一的に学んでもらえる。
また、最終試験を設けることで、「教師」を国家資格にできる。
総じて教師の質を高め、教育の水準を上げることに繋がる。
それらを、エドワードさんはわかりやすく説明してくださいました。
「今後瑣末な問題は出てくるでしょうが、フレイローズ国大学連盟は全面的な協力を宣言しました。何があってもご心配には及ばないでしょう」
これにはさすがのお姉さまも絶句されます。
いつも穏和なマシューさまの笑顔も引きつっていました。
とうとうハントさままで、目を閉じ何かを探られた後、「……どうやら本当のようだね」と呟かれました。
「不干渉不可侵を旨とする大学連盟に、一体どんな手を使ったんだい?」
「大したことはしていません。彼らにも教育者としての矜持があったのでしょう」
涼しい顔で微笑むエドワードさん。
その佇まいはやはり公爵家の血を感じさせる貴人そのものです。
「エドワードさん……一体、何者なんですか」
「何を仰る。あなたの執事ですよ」
凛とどこか誇らしげに、エドワードさんはそう仰います。
スノウ姉さまは、「末恐ろしい人だわ」と頭を抱えられていました。
「ハームズワースの次男は稀代の鬼才だと聞いていたけれど、まさかこれほどなんて……」
とんだ眠れる獅子だったわ。
そう、目を閉じて呟かれます。
しかしエドワードさんは、そんな畏怖のこもった賞賛など、どこ吹く風でした。
「否定はしませんが、私はただ彼女の願いを叶えて差し上げたい。それだけですよ」
そう言って、私の方へ柔らかい微笑みを向けられます。
「あの厳しいエドワードさんがそんなことを仰るなんて」と驚くと同時に、なんだか落ち着かない気持ちになりました。
「もう、からかうのはよしてください」
少しだけ眉を怒らせてみると、エドワードさんは一瞬だけ不自然に動きを止められました。表情が固まったのがわかります。
しかし、私が何かを言うより先に、彼はいたずらに笑いました。
「申し訳ありません。戯れが過ぎましたね」
そうして、少しだけ困ったような笑顔で、優しくさりげなく、頭を撫でてくださいました。
後世、大学連盟のこの宣言は「教育大言」と呼ばれ、偉大な転換点として世に知られるようになります。
また、サンテジュピュリナ大学長、レスター=カークランドさまは、最大の功労者として「教聖」の称号を授かることになるのですが、彼は何故かその栄誉を受け取ろうとはしませんでした。
「最大の功労者は私ではない。紫群青の天才だ」
「それは何者だ」と世間は騒然としましたが、エドワードさんが頑なに隠したがったため、結局真相は闇の中。
一人歩きした「紫群青の天才」はいつしか、飛び抜けて優秀な人を指す言葉になりました。
「さて、夕食の時間ね。鉄道車両の話はまた明日にしましょう」
お姉さまのお言葉を合図に、私たちは食堂へ向かいました。
* * *
「大将、この登り坂いつまで続くんですか……」
一人頂上に登りつめていたホルガーは、後ろを振り返り、息も絶え絶えな部下たちに明るく声をかける。
「もう少しだぞ、頑張れ! この山を越えればシュタドハイスだ」
その励ましに勇気づけられた一行は、疲弊した体に鞭打ち、何とか頂上までたどり着く。
ホルガーの隣に並び立つと、ちょうど朝日が高く昇るところだった。
「おぉ……」
各所から感嘆のどよめきが起こる。
シュタドハイス領を囲っている峻岳、ヒシャーリャ山脈からの眺めは、正に圧巻という他なかった。
春の朝ぼらけの中、シュタドハイス全域が遥か眼下に果てしなく広がっている。
整然と放物線状に広がる街道。
背の低い古風な、どこか懐かしい住居。
小さな教会があちこちに立ち、朝の鐘が厳かに鳴っている。
なだらかな丘に広がるのは果樹園。
りんごの白花が咲き乱れ、オレンジの小花が風に揺れている。
遠くには、大陸一巨大な内海と言われるラムル海が、朝日を受けキラキラと輝いていた。
「皆、長旅本当にご苦労だった。大したもてなしはできないが、シュタディアナ城で存分に羽を休めてくれ」
どこと言われずともすぐにわかる、灰色に聳え立つ巨城を見つめ、部下の一人がぽつりと呟いた。
「大将って実はお坊ちゃんだったんだな」
「誰がお坊ちゃんだ」
ホルガーは呆れ顔で、今度は山を降り始めた。
もしここに彼女がいたらなんて、そんなありもしないことを夢想しながら。




