第八十一話 ホルガーの選択
「大しょーう、少し休んで行きましょうよー」
草原に倒れ込んだ部下に、ホルガーは急いで駆け寄った。
東部特有の潮風が軍服を揺らす。
もう内海が近いのだろう。
「大丈夫か?」
水筒を差し出すと、彼は「ありがとうございます」と素直に口に含む。
春先の過ごしやすい気候とはいえ、王都から東方辺境への移動は身にこたえるに違いない。
すると、金色の長髪を靡かせながら、第二部隊隊長が悠々と近づいて来た。
「何だ、お前の部下は軟弱だな」
「お前はまだまだ余裕そうだなフラン。頼もしい限りだ」
心からの賞賛に、フランは苦虫を噛み潰したような顔をして「うるさい」と呟く。
ホルガーの離縁を聞いて、誰より取り乱したのは、他でもないこの男だった。
「俺がルコットさまと話をしてくる」と息巻いては周囲に止められているほどだ。
他の面々も初めは「きちんと会って話し合うべきです」としきりに勧めた。
しかしホルガーが、あまりにも力なく無理して笑うものだから、皆いつしかその話題を避けるようになってしまった。
フリッツでさえ、その痛々しさを前に、どうすることもできないでいる。
「ほらお前、先ほど摘んだ木苺だ。口に含めばすっきりする」
ぶっきらぼうに赤い実を差し出すフランに、隊員は大いに戸惑った。
「何だ、いらないのか」
「え……」
「野苺は嫌いか?」
「いえ!」
ぶんぶんと首を振る隊員。
それを見て、金髪の貴公子はふっと笑った。
「では取るといい」
緊張で震える隊員の舌に、木苺の味などわからなかった。
「フラン隊長ああいうとこだよな」
「な。気位高くてとっつきにくいかと思いきや、案外そうでもない……どころか普通にいい人だし」
遠目に見ていた隊員たちも、ホルガーの「休憩にしよう」という号令に従い、各々腰を下ろした。
「ホルガー、お前もどうだ」
「いいのか?」
一人、少し離れた岩の上に座っていたホルガーの隣に、フランも落ち着く。
差し出された木苺を、ホルガーはプチプチと頬張った。
それを見て、第一部隊の面々はフランの「困っている者を放って置けない性格」を少しだけ羨ましく感じた。
「……なぁ、お前は何故軍人を続けているんだ」
「何だ?藪から棒に」
突然の問いに、ホルガーは怪訝そうな表情を浮かべる。
「向いていないと思うか?」
「いや、お前ほど軍人向きな男はいないだろうさ」
何人たりとも敵わない力を備え、頭も切れる。
常に冷静で部下からの信頼も厚い。
「……俺は、お前はその地位にふさわしい奴だと思っている」
ますます戸惑うホルガーに、フランは静かに目線を据えた。
「……だが、お前は戦いを好まないだろう」
誰かを傷つけるのが嫌だろう。
傷つく人を見るのが辛いだろう。
「スノウ殿下から退役の許可を賜ったと聞いた。それなのに何故、お前は軍を離れないんだ」
今回、ルコット発案の鉄道計画が浮上したとき、スノウは珍しく気を遣い、ホルガーを人員から外したのだ。
それなのに「何故俺を組み込んでくださらないのか」と自ら食い下がったという。
「主要人員でなくてもいい。会議の出席権もいりません。ただ、この計画のために何かがしたいのです。遠征でも、交渉役でもいい。どうか俺を使ってください」
そこまで言われては、スノウも深いため息とともに許可を出すしかなかった。
結局、ホルガー始め陸軍の面々は、鉄道計画のため方々を駆け回っている。
現在は、カタル国との調整のため、一旦ホルガーの生家東方辺境シュタドハイスを目指していた。
「……確かに、戦いは好きではない」
武を象徴するような軍にいながら、そのトップにありながら、いまだ戦いに「慣れる」ということがなかった。
しかし、どうしてもここから逃げ出す気にはなれないのだ。
「……ルコットさまのためか」
疑問ではなく、確認のニュアンスだった。
誤魔化しようがないとホルガーも素直に頷く。
「彼女も、戦っているんだ」
剣ではなく、ペンと本と魔術を携えて。
気付かれなくていい。ただその計画がうまくいくように、自分にできるあらゆることをしていきたい。
そう言うと、フランは眉間にしわを寄せた。
「お前を捨てた妻だろう」
「違う!」
常にない剣幕だった。
息を飲んでいると、ホルガーはもう一度、まるで自身に言い聞かせるように「……違う」と呟いた。
フランは更に不機嫌そうに顔をしかめ、その勢いのまま口を開く。
どうにも苛立った。
今の状況を全く良しとしていないくせに、物分かりの良い男のふりをして何の行動も起こさない好敵手に。
「何だ、戻る見込みもない相手をまだ愛してるのか。不毛なことだ」
言ってから、「しまった」と内心唇を噛む。
売り言葉に買い言葉で、彼にとって今最も手酷い言葉をぶつけてしまった。
苛立ちはしても傷つけたかったわけではないのに。
「すまない、言いすぎた」
「いや、構わない。こちらこそ心配をかけているな」
眉を下げて笑うホルガー。
フランは今度こそかける言葉を持たなかった。
「だが、『まだ』というのは正確ではない。きっと俺は生きている限り、彼女を忘れることはできない……それで良いと思っている」
「さて、そろそろ出発するか」とホルガーが立ち上がってもなお、フランはその場に呆然と座っていた。
遠ざかる背を見送りながら、胸の内で呟く。
忘れることができない?
それでいい?
まるで忘れられないことが救いであるかのような言いようではないか。
この先ずっと、愛する人の記憶だけを頼りに生きていくつもりなのか?
「……いや、そんなはずはない」
脳裏にルコットの姿が蘇る。
何がどうして別れることになったのかはわからないが、彼女が望んだこととは思えない。
(あの娘はホルガーを傷つけることだけは、決してしない)
あれほどの勇気とひたむきさでホルガーだけを見つめ続けていたのだから。
自分にできる最善を尽くし、ホルガーの背を追いかけていた娘なのだから。
「……こんな結末は、あんまりだ」
こんな結末、認めない。
彼らに不幸は似合わない。
「……大将、頑張りどころだ」
頭の中で、仲睦まじく寄り添い合う二人を思い出し、フランは常になく真剣な表情で、ぐっと両手を握りしめた。




