第七十六話 ガヴァネスの朝
「ルコットさーん! 郵便です」
「はーい!」
扉を開けると、外から薄桃色の花弁が室内に舞い込んできました。
甘く暖かな空気が、朝食の乗ったテーブルクロスを揺らします。
いつもの郵便屋さんが配達鞄から手紙を取り出しながら、「もうすっかり春ですね」と微笑まれました。
「今日もたくさん手紙が届いてますよ。これは王都から。こっちはシュタドハイスから。アルシラ方面からは二通。たくさんお友達がいらっしゃるんですね」
あれから、春になる前に、私はハップルニヒさまのお屋敷を出て、ダヴェニスのアパートメントで暮らし始めました。
ちなみに、右隣にはヘレンさん、左隣にはばあや、真下の一階にはエドワードさんが暮らしています。
こういった建物は学生街ならではなので、私は地方から教育学を学びに来た学生さんだと思われているようでした。
あながち間違ってはいないので、特に訂正もしていません。
白い板張りで三角屋根の二階建ての建物は、まるで小さな教会のよう。
日当たりも良く、部屋の一番大きな窓からは生命の樹が見えます。
備え付けの家具は手入れの行き届いた年代物で、化粧台まで付いていました。
特に気に入っているのは、天蓋付きの小さな白木のベッドです。
更に、この部屋の隅には、かつてある音大生が残していった小さなアップライトピアノが置かれているのでした。
せっかくなので弾けるようになりたいと思っていたところ、エドワードさまが度々教えに来てくださるようになりました。
今では簡単な譜面なら読むことができますし、私のピアノを聴きながら、ばあやとヘレンさんとエドワードさんがお茶を楽しんでいることもあります。
郵便屋さんの彼とは、ここへ越して来てから、すっかり顔なじみになりました。
何せ毎日のように手紙が届くのですから。
「いつもありがとうございます」
そう言うと、彼はいつも少し俯きがちに、はにかんで、「こちらこそ」と返してくださるのです。
ヘレンさんが、赤毛で緑の目をした背の高い彼は、街の人気者だと仰っていました。
それは是非もないことだと思います。
「今日もこれから家庭教師のお仕事ですか?」
「はい、まだまだ見習いなので、午後からは学校で勉強なのですが」
「それは忙しいですね」
それきり、彼は黙ってしまいました。
いつもなら「頑張ってくださいね」と爽やかに去って行かれるのに、今日はどうされたのでしょう。
首を傾げて待っていると、彼はとうとう、意を決したように、真剣な眼差しで口を開かれました。
「あの……ルコットさん! ……ですよね」
宛名の確認でしょうか。
「はい」と頷くと、郵便屋さんの目元が、どこか優しく、柔らかくなったように見えました。
「あの、俺の、名前……テディといいます。テディ=ハープランドです。ただの郵便屋じゃなくて、名前で覚えていただけたら、嬉しい、です」
初めて聞いた彼の名前は、優しげで気さくで綺麗な彼にぴったりの良い名前だと思いました。
「すてきな名前ですね。テディさん、これからもよろしくお願いします」
顔見知りの郵便屋さんがもっと身近な存在になったような気がして、思わず頬が緩みます。
テディさんも赤い頬で微笑み返してくださいました。
「そうだ、ルコット、さん。いつか俺にも勉強を教えてくださいませんか? 学はないのですが、いつか学校に行ってみたいなと、小さいときからずっと思っていたんです」
学校に行ってみたい。
その言葉が、私の心を奮い立たせます。
知りたい。学びたい。
その言葉が、いつでも私の背を押すのです。
「もちろんですわ。こんな未熟者でよろしければ、いつでも」
「未熟者なんかじゃありません。その本棚が証拠です」
テディさんの視線の先の本棚には、増え続けているノートがぎっしりと詰まっています。
あちこちに付箋が貼られ、既にぼろぼろのものもありますが、私にとっては大切な自分用の教科書です。
「……ありがとう、ございます」
「こ、こちらこそ。それじゃあ、俺行きます。楽しみにしていますね。良い一日を!」
ばたばたと階段を降りる音を聞きながら、部屋に戻りかけたところで、「いい雰囲気だったじゃない」と後ろから声をかけられました。
言わずもがな、ヘレンさんです。
「そんなんじゃありませんわ」
「そんなんでしょう。彼、下でガッツポーズしてたわよ?」
それは勉強の機会を見つけたからだと、言いかけてやめました。
何を言ってもヘレンさんはからかうのをやめないのです。
「その気もないのにその気にさせて、ルコットはいつからそんな悪い女になっちゃったの?」
「ヘレンさん、重いです。ちゃんとパンは買って来れましたか?」
のしかかるヘレンさんに控えめに抗議すると、「ルコットがどんどん塩対応になってきた」と嘆くふりをされていました。
「はい、買ってきたわよ。今朝はばあやさんとエドワードさん、朝食いらないんでしょう?」
「はい、ばあやは早出の日ですし、エドワードさんも早朝から出られているようです」
「そ。あ、私もゆっくり食べてる暇ないのよ。これだけもらって行くわ。草原で食べるから」
そう言ってクロワッサンを二個、鞄に詰められます。
「今日もハントさまと特訓ですか?」
「そうそう、ルコットと違って、私は出来が悪いから」
「そんなことはありません。目覚ましい進歩だとハントさまも褒めてらっしゃいます」
ヘレンさんはひらひらと手を振ると、「もっともっと進歩したいのよ」と笑って出て行かれました。
静かになった室内で、小さく息をつき、窓を開けます。
それから、用意してあった食卓に厚切りの全粒粉パンを添えました。
今日の朝食は、甘い厚焼き卵にカリカリに焼いたベーコンとアスパラです。
ふわふわの卵と、ジューシーなベーコン、新鮮なアスパラは、朝からとても幸せな気持ちにしてくれます。
先ほどのパンにたっぷりバターを塗って頬張ると、さくっと香ばしい香りの後に、もちもちっとした食感がたまりません。
「……幸せ」
あの手紙を書いた日、私はもう二度と心から笑えることはないだろうと思いました。
しかし、翌朝泣きはらした私の元にリリアンヌさまが運んでくださったスープがあまりに美味しくて。
私は、いつの間にか、泣きながら笑ってしまっていたのです。
あれから、皆さんに離縁のことを話し、本格的にこの地で計画を進めて行きたいとお伝えしました。
侯爵ご夫妻は痛ましげに眉を寄せられ、リリアンヌさまは怒り狂われました。
――嫌ですって言ったじゃない! 渡せませんって言ったじゃない! 彼のこと、愛してるんでしょう!? こんなのってないわ……だって、全部、私のせいじゃない……。
そうではない。これは私の問題だから、どうか気に病まないで。そういくら説明しても無駄でした。
だから、私は人生最大の嘘をつくことに決めたのです。
――渡せないと言ったのは、あの婚姻が政略結婚だったからです。彼を、愛してなんか……いません。私は、とうとう王家に逆らって、自由を得る決心をしただけです。
愛してなんかない。
嘘でもそんなこと、言いたくありませんでした。
胸が今までよりもっと強く痛みました。
その真に迫った表情が説得力を増してくれたのか、何とかリリアンヌさまは納得してくださったようでした。
その後、ホルガーさまから「わかりました」という短いお返事をいただいたとき、私はまた、心臓を掴まれたような痛みの中で、一人涙を流しました。
もうこれ以上の悲しみは、後にも先にも起こらない。
そんなときでも、皆さんと食卓を囲み、少量でも温かな食事を摂っていると、自然と前向きになれる気がしました。
あの手紙は今でも、タンスの奥に大切にしまってあります。
彼の字は思っていたよりずっと流麗で、思っていた通りに美しい字でした。
屋敷を出て自活したいとお願いしたとき、この部屋を紹介してくださったのは、リリアンヌさまでした。
屋敷にいればいいと反対された侯爵さまを説得してくださったのも、他でもないリリアンヌさまとターシャさまです。
そしてお二人は誰より頻繁にこの部屋を訪れました。下手をするとばあやより多いくらいかもしれません。
「心配しすぎですよ」
そう笑うと、リリアンヌさまは「心配なんかしてないわよ!」と憤慨されていました。
* * *
下ろした波打つ髪を撫で付け、薄くリップを塗ると、最近購入した紺碧のジャケットを羽織り、外に出ます。
今日はジャックくんのお家に伺う日です。
頭の中で、山の麓の彼の家を思い浮かべながら、お腹の中の温かな魔力に意識を集中します。
それから、そっと花の魔水晶の指輪に触れると、パチっとパズルのピースが噛み合うような感覚が体を走りました。
その瞬間を見計らい、ストラップ付きのパンプスをふわりと浮かせます。
すると、体全体が、まるで風になったように空気に乗るのです。
初めはこの感覚がわからず苦労しましたが、今では王都くらいまでなら苦もなく移動できます。
目を開くと、そこはダヴェニスから馬車で数時間ほどかかるジャックくんのお家の前でした。
私を中心に波打つ草原に、そっと着地します。
「先生!」
車椅子に乗ったジャックくんが、嬉しそうに窓から手を振ってくれました。




