第七十四話 ダヴェニスでの生活
あの日から、ルコットとヘレンは毎日青空教室に通っている。
何故なら二人とも、まともな教育というものを受けたことがなかったからだ。
リリアンヌとターシャの授業を見学しながら、「教えること」を学ぶ。
彼らもまた、自身の受けてきた教育をなぞっているだけだったのだけれど。
近頃のルコットは、朝が早い。
まだ日が昇りきらないうちから、侯爵家の図書室でとにかくたくさんの本を読む。
不思議なことに、そこにはあらゆる種類の書籍が網羅されていた。
さすが「知のハップルニヒ家」だと感心したが、実はそのうちの大半はリリアンヌのものだった。
いずれにせよ、勉強などしたことがない、どこから手をつければ良いかわからないルコットにとってはありがたかった。
ルコットは毎朝朝食までの数時間、ここで片端から本を広げ、黙々とノートに内容をまとめていった。
昼過ぎになると、王都からハントがやって来る。
約束通り、ルコットに魔術を教えているのだ。
今はまだ、初歩の初歩。自身の魔力を意識できるようになることが当座の目標だ。
「ほら、背筋が曲がっているよ。背中に細い棒が通っていることを意識しながらあぐらをかいて。そう。そのまま、後ろの大樹の綺麗な魔力を吸い込むイメージだ。君は体内の魔力量が少ないから、まずはこうして外から魔力を取り込めるようにならないと」
それは、魔力合成下手な体質の者にとっては基礎中の基礎だった。
「魔力はどこにでも漂っているが、特に濃度が濃いのは自然の中だ。中でも魔石になっている『炎』『水』『風』『土』『木』の傍は絶好のポイントだよ。他に『金』や『雷』なんてのもあるけど、こちらはまあおいおい」
魔石というものは、魔力の吹き溜まりで、自然界の魔力が凝固したもの。
つまり、魔石の取れるところは、魔力の集まるところだと考えられるのだ。
ちなみに「魔水晶」と呼ばれるものは「金」――つまり純度の高い宝石に魔力がこもったものらしい。
「体の中に光の筋が通るのを意識して。それをお腹の中に集めるんだ」
「……目に見えないものを意識するのは難しいですわ」
つい泣き言をもらすと、ハントは「そうだね」と笑った。
「魔力を可視化することもできるよ。こんなふうにね」
ハントの手のひらに、パチパチっと金平糖のような星が散り、金色の腕輪が現れた。
「このまま実体化するとすごく女の子が喜ぶんだけどね。フュナ姫が怒るから控えているよ」
腕輪がサラサラと砂金のように崩れて消える。
ルコットは小さく笑うと「それがいいですわ」と同意した。
「まあ、いずれにせよ、これはちょっと君には早い。今はただ、訓練あるのみだよ」
ルコットは頷くと、再び目を閉じ、体の中に意識を集中した。
近頃はようやく、「光の筋」という感覚がわかるようになってきたのだ。
小さくも大きな進歩だった。
「それじゃあ、私はヘレン嬢の様子を見てくるよ。前みたいに倒れるまで無茶しないこと。わかったね?」
「はい、心得ていますわ」
ハントは「本当にわかっているのか」と苦笑しつつもひらひらとその場を去っていった。
何でも、ヘレンもハントに魔術を習っているらしい。
彼女自身は魔力を備えていなかったが、彼女の持つ人形「サラ」が魔力供給の役割を担っているのだとか。
ルコットにはよくわからなかったが、時期が来れば話してもらえるだろうと思っている。
季節は、冬を迎えようとしていた。
* * *
夕食後、ルコットが図書室で勉強をしていると、そこにヘレンがやって来た。
「ルコット、スノウ殿下からお手紙よ」
ノートにペンを走らせていたルコットは、弾かれたように顔を上げ、待ちきれないと言わんばかりに駆け寄った。
急いでペーパーナイフを取り、開封する。
中からは、数枚の手紙と、大きな石のついた指輪がコロンと出てきた。
透明な、光の当たり方によって色を変える、不思議な石だった。中には小花のようなものがたくさん浮かんでいる。
まるで澄んだ水の中に花々が咲き乱れているようだと思った。
「……綺麗」
「本当ね。ねえ、これは何? 手紙には何て書いてあるの?」
「ええと……」
ルコットは急いで手紙に目を走らせた。
* * *
ルコット、返事が遅くなってごめんなさい。
心の中を整理してまとめるのに、時間がかかってしまいました。
まずはじめに、私はあなたに謝らないといけない。
ごめんなさい。
私は、実の妹であるあなたの意思を無視して、政の道具に使いました。
あなたが何も言えないのをいいことに、自分の都合の良いように使おうとしました。
本当に、ごめんなさい。
あのときの私は、今よりもっと余裕がなくて、ただこの国を守らなければとそればかりだった。
感情など二の次だと思っていたのです。
でも、許されるなら一つだけ、言い訳をさせてもらえるなら――それでも私は、あなたの幸せを願っていました。
彼、レインヴェール伯なら、きっとあなたを幸せにしてくれる……いえ、そうではないわ。
彼と一緒なら、きっとあなたは自分から幸せになろうとする。
そう思って、あの結婚を進めたのも事実です。
結局、それは私の独りよがりな思い過ごしでしたが、少なくとも、私はあなたを一人の妹として大切に思っていました。
私の計画した身勝手な政略結婚が、深くあなたを傷つけたこと。
そして、そのために、あなたが王都を離れる決断を下したこと。
私の胸には風穴が空いたようです。
できればいつかは、戻ってくれると嬉しいけれど……でも、他にあなたの居場所があるのなら、無理に戻ってきなさいとは言いません。
どうか好きな場所で、心やすく暮らしてください。
ハントから、魔術を習い始めたと聞きました。
あなたも知っているでしょうけど、石は魔術師の大きな補助になります。
それは、足りない魔力を増幅させたり、暴走した魔力を押さえ込んだり、魔力の質を保ったり、魔力を必要な形に変化させたり。
その時々に応じて、まるで優秀な助手のように、いつでも傍に寄り添ってくれるでしょう。
あなたはそんなもの、持っていないでしょうから、一つ贈ります。
ただの宝石でも良かったのですが、とある人がどうしてもこの水晶をというので、それを指輪に加工しました。
値段のつけられないほど純度の高い魔水晶です。
購入したのは私ではないので、礼は必要ありません。ただ大切に、身につけておいてください。
きっと、あなたを守ってくれます。
最後に――彼は今でも毎日あの家に帰っています。
一日だって仮眠室に泊まることはないようです。
まるで、あなたの帰るその瞬間を、決して逃すまいとするかのように。
顔を合わせるのが辛いなら、それでも構いません。
ただ一言、彼に伝えてあげてください。
彼もまた、私の計画に翻弄された被害者の一人なのです。
あなたたち二人にこんな思いをさせてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。
しかしだからこそ、私はこの国の未来を願うことはやめずにいようと思います。
あなたの書いてよこした計画は、確かに途方も無いものですが、もし成功すれば、それこそ世界が変わるでしょう。
私も、この国の第一王女として、全面的に支援します。
陛下もご賛同くださっているので、安心して進めなさい。
どうか無理だけはしないように。
周りをよく頼って、困ったことがあればすぐに言いなさい。
あなたはいつまでも、私の大切な妹です。
――追伸
この手紙は読み終わったらすぐ燃やして。
あの人が素直に書かないと伝わらないと言うから……ああ、顔から火が出そう。
* * *
ルコットは小さく笑うと、手紙を手持ち蝋燭の火にくべた。
驚くヘレンに笑いかける。
少し勢いを増した炎に照らされたその笑顔には、幸せ、愛情、感謝がそれぞれ。そして、その影になった部分には言いようのない諦めが滲んでいるようだった。
「ルコット、どうしたの?」
ヘレンの問いかけには答えず、窓の外の暗闇を見つめる。
葉も落ちきった庭は、寒々とした月光に照らされていた。
「……とうとう、タイムリミットがきてしまっただけですわ」
ずるずると未練を引きずり、細く細く引き伸ばされた頼りない糸。
もしかしたらもう、途中で切れてしまっているのかもしれない。
それでも、どうしてもその片端を手放すことができなかった。
しかし――しかし、いつまでも、律儀な彼をあの家に縛り付けておくわけにはいかない。
逃げるのはもう、ここまでだ。
「……ヘレンさん、ここへ便箋を」
ヘレンは何かを察したように静かにその場を後にした。




