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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第四章 知の都 リヒシュータ領 ダヴェニス
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第七十三話 エドワードの暗躍


「だから何度も申し上げていますように、学長は本日会議が入っておりまして、どなたともお会いすることができません」


 受付の窓口に座る男は、内心盛大なため息をついた。

 こんな得体の知れぬ男を、権威ある本学長に取り継ぐわけにはいかないのだ。

 それなのに、この恐ろしく顔の整った男は一歩も引く様子を見せない。

 一目で仕立てが良いとわかる服を、優雅に纏ったその姿は、お忍びの貴族のようでさえある。


「ですから、無理を承知で申し上げているのですよ」


 低く玲瓏なその声に、同性ながらどきりとしてしまう。

 早く交代の時間になってくれと祈っていると、ちょうど休憩から戻った同期が、ぎょっとしたように目を剥いた。


「あ、あなたは……!」


 「彼を知っているのか」と目線を向けるも、驚きのあまり言葉も出ないようで、口をはくはくと動かすばかりだ。


 とうとう眼前の美丈夫は、身元を隠すことを諦めたように小さくため息をついた。

 口元に、困ったような微笑を浮かべて。


「申し遅れました。私はエドワード=ハームズワースと申します。サンテジュピュリナ大学長、レスター=カークランドさまにお取り次ぎ願えますか?」


 その一拍後、受付に悲壮な悲鳴が響き渡った。



* * *



 カークランド学長が応接室に息急き切って駆け込むと、そこには優雅に紅茶を嗜む、見覚えのある青年が座っていた。


「おや、早かったですね」

「……エドワード=ハームズワースくん」


 学長はまるで幽霊でも見るかのようにエドワードをまじまじと見つめた。


「本学始まって以来の天才と謳われた君が、一体どういう風の吹き回しかな。卒業後、何度呼び戻そうとしても、ついに首を縦には振らなかった君が」


 エドワードは「昔の話じゃないですか」と苦笑した。


「今日はかつての師にお願いに上がったんです」

「……そりゃなんとも、都合の良い話じゃな」


 不機嫌そうな老人は、しかし話は聞くつもりのようで、正面の椅子に腰掛ける。


「……それで、何じゃ、『お願い』とは」

「私たちに協力してほしいんです」

「協力?」


 話が読めず、学長は片眉を上げる。

 対するエドワードは、微動だにせず真剣な眼差しで見返した。


「はい」

「何をするつもりなのか」

「この国の……いえ、この世界の教育を変えます」


 室内に、しんとした沈黙が落ちた。

 眼前の青年に、かつての少年の姿が重なる。

 変わった子どもだった。

 飛び級に飛び級を重ね、最年少で誰より偉大な成果を上げながら、しかしそんなことにはてんで興味がないと言わんばかりに、いつも退屈そうな目をしていた。

 

(この男は、本当にあの、エドワードくんなのか)


 かつてのエドワードは、誰かに能動的に働きかけるような子ではなかった。まして誰かに協力を請うような子でもない。

 言われたことはする。

 反抗はしない。

 それだけだ。

 彼の目を通して見る世界は、きっと心底つまらないものなのだろう。

 学長は常々、「飛び抜けた天才とはかくも哀れなものなのか」と同情していた。


 その彼が、今強い意志をもって、自分に呼びかけている。

 この世界の教育を変えたい、と。

 老カークランド学長にとって、否、教え子を持つ誇り高い教育者にとって、これ以上の誉はなかった。


「わかった。協力しよう」


 一瞬の迷いもない二つ返事の了承に、さすがのエドワードも目を剥く。

 普段あまり動かないその表情が、明らかに動揺していた。


「本当に、よろしいのですか? まだ内容も聞かれていないのに」

「かつての教え子の頼みじゃ。この老いぼれにできることなら協力は惜しまぬ。それが教育に関することなら尚更じゃ」


 カークランド学長は、自身の皺だらけになった手をじっと見つめた。

 もう、先はそう長くない。

 しかし、死を迎えるそのときまで、教育者の矜持を忘れたくはない。


「聞こう。その目的は何だ」


 エドワードの口角が、小さく上がった。

 かつて、惰性で毎日を過ごし、世間を斜めに見ていたエドワードに、彼はこう言ったのだ。


――問おう。そなたの目的は何だ。


 そのときのエドワードは、答える言葉を持たなかった。

 しかし今なら、はっきりこう答えられる。


「全ての民に、教育を。誰もが等しく学び、夢を持ち、生涯を全うできる、そんな平和な世界を、私は望みます」


 老学長は満足げに笑った。

 そのまま、じわじわと大きくなる喜びを抑えきれず、とうとう晴れやかな笑い声を上げた。

 その気持ちの良い笑顔に、エドワードもそっと微笑を返す。


「面白い。このわしが生涯をかけても叶えられなんだ夢を、そなたが実現すると言うか」


 エドワードは不敵に笑うと、はっきりと頷いた。


「先生が生きているうちに、実現してみせますよ」


 なんといっても、私は大学始まって以来の天才らしいですから。

 そう言うと、エドワードは少々いたずらに微笑んだ。

 それは、少年の時分には見たことのない、純粋な笑顔だった。


「まあ、実のところ、私はただのおまけ、一介の協力者に過ぎないのですが」

「何? では君を差し置いて誰がその指揮をとっているのかね」


 心底驚いた様子の学長に、エドワードはどこか誇らしげにこう告げた。


「リリアンヌ=ハップルニヒさま、そして、我が主人ルコットさま。ちなみにその背後には、スノウ殿下がいらっしゃいます」

「なっ……それでは王命も同然ではないか」


 そういえば、風の噂で聞いていた。

 この青年は天賦の才と家柄に恵まれていながら、何故か使用人の真似事をしているのだと。

 長年学長はそれが不思議でならなかったのだが、彼の晴れやかな顔を見ていると、それもまた良しという気になってしまう。


「そのお方……ルコットさまとは、どんな方だ?」


 お前が仕えるに足る方なのか?

 そんな問いは無粋だった。

 エドワードの表情を一目見れば、わかりきったことではないか。


「……会えばわかりますよ」


 長い睫毛がその白い頬に落ちる。

 この青年はこんな顔をするようになったのか。


「わかった。楽しみにしていよう」


 二人はきつく握手を交わすと、「また近いうちに」と別れた。


 去り際、扉をくぐるエドワードに、学長は思い出したかのように問いかけた。


「最後に、一つ教えておくれ」

「何でしょう」


 振り返ると、深藍色の艶やかな髪と瞳に日が差し、銀色の眼鏡が光る。

 その姿はかつてと同じく硬質な美しさを備えていたが、何かが決定的に違っていた。


「何がお前の人生をそこまで変えたのか」


 一体何が、その無気力な瞳に光を灯したのか。


 エドワードは、女神も赤面するような極上の微笑でもってその問いに答えた。


「いい方に恋をしたんです。もう振られてしまいましたが」


 ただそれだけですよ。

 そう言い残して、彼はとうとう部屋を後にした。

 残された学長はその場に茫然と固まる。


「こい……こい……恋?」


 あの鉄面皮で、無慈悲で、切っても血も出ぬエドワードが、恋?

 数十分後、秘書が呼びにくるまで、彼はそのまま立ち尽くしていた。





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