第七十三話 エドワードの暗躍
「だから何度も申し上げていますように、学長は本日会議が入っておりまして、どなたともお会いすることができません」
受付の窓口に座る男は、内心盛大なため息をついた。
こんな得体の知れぬ男を、権威ある本学長に取り継ぐわけにはいかないのだ。
それなのに、この恐ろしく顔の整った男は一歩も引く様子を見せない。
一目で仕立てが良いとわかる服を、優雅に纏ったその姿は、お忍びの貴族のようでさえある。
「ですから、無理を承知で申し上げているのですよ」
低く玲瓏なその声に、同性ながらどきりとしてしまう。
早く交代の時間になってくれと祈っていると、ちょうど休憩から戻った同期が、ぎょっとしたように目を剥いた。
「あ、あなたは……!」
「彼を知っているのか」と目線を向けるも、驚きのあまり言葉も出ないようで、口をはくはくと動かすばかりだ。
とうとう眼前の美丈夫は、身元を隠すことを諦めたように小さくため息をついた。
口元に、困ったような微笑を浮かべて。
「申し遅れました。私はエドワード=ハームズワースと申します。サンテジュピュリナ大学長、レスター=カークランドさまにお取り次ぎ願えますか?」
その一拍後、受付に悲壮な悲鳴が響き渡った。
* * *
カークランド学長が応接室に息急き切って駆け込むと、そこには優雅に紅茶を嗜む、見覚えのある青年が座っていた。
「おや、早かったですね」
「……エドワード=ハームズワースくん」
学長はまるで幽霊でも見るかのようにエドワードをまじまじと見つめた。
「本学始まって以来の天才と謳われた君が、一体どういう風の吹き回しかな。卒業後、何度呼び戻そうとしても、ついに首を縦には振らなかった君が」
エドワードは「昔の話じゃないですか」と苦笑した。
「今日はかつての師にお願いに上がったんです」
「……そりゃなんとも、都合の良い話じゃな」
不機嫌そうな老人は、しかし話は聞くつもりのようで、正面の椅子に腰掛ける。
「……それで、何じゃ、『お願い』とは」
「私たちに協力してほしいんです」
「協力?」
話が読めず、学長は片眉を上げる。
対するエドワードは、微動だにせず真剣な眼差しで見返した。
「はい」
「何をするつもりなのか」
「この国の……いえ、この世界の教育を変えます」
室内に、しんとした沈黙が落ちた。
眼前の青年に、かつての少年の姿が重なる。
変わった子どもだった。
飛び級に飛び級を重ね、最年少で誰より偉大な成果を上げながら、しかしそんなことにはてんで興味がないと言わんばかりに、いつも退屈そうな目をしていた。
(この男は、本当にあの、エドワードくんなのか)
かつてのエドワードは、誰かに能動的に働きかけるような子ではなかった。まして誰かに協力を請うような子でもない。
言われたことはする。
反抗はしない。
それだけだ。
彼の目を通して見る世界は、きっと心底つまらないものなのだろう。
学長は常々、「飛び抜けた天才とはかくも哀れなものなのか」と同情していた。
その彼が、今強い意志をもって、自分に呼びかけている。
この世界の教育を変えたい、と。
老カークランド学長にとって、否、教え子を持つ誇り高い教育者にとって、これ以上の誉はなかった。
「わかった。協力しよう」
一瞬の迷いもない二つ返事の了承に、さすがのエドワードも目を剥く。
普段あまり動かないその表情が、明らかに動揺していた。
「本当に、よろしいのですか? まだ内容も聞かれていないのに」
「かつての教え子の頼みじゃ。この老いぼれにできることなら協力は惜しまぬ。それが教育に関することなら尚更じゃ」
カークランド学長は、自身の皺だらけになった手をじっと見つめた。
もう、先はそう長くない。
しかし、死を迎えるそのときまで、教育者の矜持を忘れたくはない。
「聞こう。その目的は何だ」
エドワードの口角が、小さく上がった。
かつて、惰性で毎日を過ごし、世間を斜めに見ていたエドワードに、彼はこう言ったのだ。
――問おう。そなたの目的は何だ。
そのときのエドワードは、答える言葉を持たなかった。
しかし今なら、はっきりこう答えられる。
「全ての民に、教育を。誰もが等しく学び、夢を持ち、生涯を全うできる、そんな平和な世界を、私は望みます」
老学長は満足げに笑った。
そのまま、じわじわと大きくなる喜びを抑えきれず、とうとう晴れやかな笑い声を上げた。
その気持ちの良い笑顔に、エドワードもそっと微笑を返す。
「面白い。このわしが生涯をかけても叶えられなんだ夢を、そなたが実現すると言うか」
エドワードは不敵に笑うと、はっきりと頷いた。
「先生が生きているうちに、実現してみせますよ」
なんといっても、私は大学始まって以来の天才らしいですから。
そう言うと、エドワードは少々いたずらに微笑んだ。
それは、少年の時分には見たことのない、純粋な笑顔だった。
「まあ、実のところ、私はただのおまけ、一介の協力者に過ぎないのですが」
「何? では君を差し置いて誰がその指揮をとっているのかね」
心底驚いた様子の学長に、エドワードはどこか誇らしげにこう告げた。
「リリアンヌ=ハップルニヒさま、そして、我が主人ルコットさま。ちなみにその背後には、スノウ殿下がいらっしゃいます」
「なっ……それでは王命も同然ではないか」
そういえば、風の噂で聞いていた。
この青年は天賦の才と家柄に恵まれていながら、何故か使用人の真似事をしているのだと。
長年学長はそれが不思議でならなかったのだが、彼の晴れやかな顔を見ていると、それもまた良しという気になってしまう。
「そのお方……ルコットさまとは、どんな方だ?」
お前が仕えるに足る方なのか?
そんな問いは無粋だった。
エドワードの表情を一目見れば、わかりきったことではないか。
「……会えばわかりますよ」
長い睫毛がその白い頬に落ちる。
この青年はこんな顔をするようになったのか。
「わかった。楽しみにしていよう」
二人はきつく握手を交わすと、「また近いうちに」と別れた。
去り際、扉をくぐるエドワードに、学長は思い出したかのように問いかけた。
「最後に、一つ教えておくれ」
「何でしょう」
振り返ると、深藍色の艶やかな髪と瞳に日が差し、銀色の眼鏡が光る。
その姿はかつてと同じく硬質な美しさを備えていたが、何かが決定的に違っていた。
「何がお前の人生をそこまで変えたのか」
一体何が、その無気力な瞳に光を灯したのか。
エドワードは、女神も赤面するような極上の微笑でもってその問いに答えた。
「いい方に恋をしたんです。もう振られてしまいましたが」
ただそれだけですよ。
そう言い残して、彼はとうとう部屋を後にした。
残された学長はその場に茫然と固まる。
「こい……こい……恋?」
あの鉄面皮で、無慈悲で、切っても血も出ぬエドワードが、恋?
数十分後、秘書が呼びにくるまで、彼はそのまま立ち尽くしていた。




