第七十話 最愛
緩やかな一本道を歩きながら、丘の上に見える屋敷にぼんやりと目を向ける。
見慣れた我が家だ。
ぼんやりと明るい光をこぼす窓。
遠くから微かに聞こえてくる彼女の笑い声。
ホルガーは、はっとして駆け出した。
「ただいま……!」
疲弊しきった体を引きずり、玄関をくぐる。
すると、見えていたはずの光も、聞こえていたはずの柔らかな笑い声も、全てが霞のように一瞬で霧散する。
そこにあるのは、がらんとした真っ暗な無人の屋敷だった。
すっと体温が冷えていくのを感じる。
そうだ、彼女はいない。
今朝方出発したばかりではないか。
わかっていたはずだ。
弱った心が見せた幻に舌打ちしたい苛立ちを抑え、これ以上心が冷たくなる前にと急いで灯りをつける。
軍の寮に泊まっても良かったのだ。
何なら仮眠室でも良かった。
そうすれば、こんな虚しい幻を見ることもなかっただろうに。
しかし、彼女はいつ帰るかわからない。
帰ってきたそのとき、できることなら明るい屋敷で迎えてあげたい。
いつもしてくれていたように、真っ先に迎えに出て、「おかえり」と言葉をかけたかったのだ。
「いや、さすがに今日のうちに帰ることはないだろう」
小さく呟き、痛々しく自嘲する。
そもそも、彼女が帰れば、自分は彼女と別れなければならない。再会は即ち別れを意味するのだ。
それを思うと、複雑な痛みに胸の辺りが引き攣れた。
顔が見たい。声が聞きたい。
そして、できることならずっと傍にいてほしい。
そんな想いが内側から溢れ出しそうになるのを、必死で抑え込む。
(……愚かだ。相当焼きが回っているな)
欲の少ない方だと思っていた。
地位にも娯楽にも、過ぎた財にも興味はない。娼館に足を踏み入れたことさえなかった。
唯一の望みは、この国の平和な未来。
そのためだけに生きてきた。
そのはず、だったのに。
どこにいても、何をしていても、脳裏に浮かぶのは彼女の顔ばかり。
――今日の晩ご飯は鮭のグラタンです。
――庭にクリスマスローズを植えたんですよ。冬になるのが楽しみですね。
――いつか、ホルガーさまの故郷に行ってみたいです。
「……約束、したじゃないですか」
冬になったら暖炉の前の窓から、庭の花を共に見ようと。
暖かくなったら休暇を取って、シュタドハイスに遊びに行こうと。
健やかなるときも病めるときも、生涯を共に生きていこうと。
「……いや、駄目だ。彼女を責めてはいけない」
ぐっと両手を握りしめ、広い屋敷内を歩く。
足は自然と台所に向かっていた。
いつも彼女が楽しげに料理をしていた場所だ。
――ホルガーさま!クッキーを焼きました。今日のはアーモンド入りですよ。
目を閉じればその情景があまりに鮮明に蘇る。
いっそう残酷なほどに。
どれほど愛しかったことか。
否、共にいられないとわかった今でさえ、その愛しさは全く損なわれることがない。
永遠の最愛。
どんなに離れても、愛しさはまるで春の花弁の如く降り積もるばかりだ。
彼女と共に過ごした時間、どれほど些細なひと場面でさえ、脳裏に焼き付いて離れない。決して色褪せることはない。
何に代えても守りたい。
どんな運命からも、悲しみからも。
この白黒の人生に、優しい色を差してくれた少女。
どんなに恐ろしくても、何度でも立ち上がり前を向き続ける、眩しい少女。
知らず知らずのうちに、ホルガーはその優しさに救われていた。
その強さに、奮い立たされていたのだ。
「……隣に立つことができないなら、せめて……せめて遠くから、彼女を守らせてくれ」
ホルガーは恐らく、生まれて初めて神に祈った。
「……俺の振るう剣が、どうか彼女の進む道を切り開きますように」
ホルガーは、軍人だ。
それ以外の生き方は知らない。
彼女のためにできることなど一つしかない。
戦って、戦って、守り抜く。
ただそれだけだった。
ホルガーは自身のあまりの空虚さに、乾いた笑みを浮かべた。
彼女の傍で生きるうちに、いつしか勘違いしてしまっていたのだ。
自分に課せられた使命は、戦いだけではないのだと。
生まれてきた意味はきっと、戦い以外にもあるのだと。
例えば、美味しい食事を共にするとき。
美しい景色を共に眺めるとき。
楽しい出来事を、共に笑い合うとき。
彼女と共にいるときだけ、ホルガーは陸軍大将ではなく、平凡な一人の男でいられた。
人として生きる幸せを感じられたのだ。
「……この先もう二度と、あんな幸せは訪れまい」
何ということはない。
以前の生活に戻るだけ。
自分には大切な家族も仲間もいる。決して孤独になるわけではない。それなりに楽しい毎日だったはずだ。
鍛えて学んで戦って、飲んで騒いで寝る。
きっと笑顔も作れるだろう。
時間は平等に進み、冬が終われば春が来て、夏を過ごせばまた秋が来る。
何度でも、何度でも、季節は巡り、自分はきっと、それなりに幸せに歳を重ねていくだろう。
――しかし、彼女のいる四季だけはもう二度と巡って来ない。
ホルガーはその場に跪くと、歪んだ視界で窓から月を見上げた。
時が止まってしまえばいい。
彼女のいない季節なら、もはや自分には何の意味もないのだ。
「……いや」
ホルガーは低く笑うと、首を振った。
やけを起こしてはいけない。
これから巡って来るのは、彼女のいない季節ではない。彼女が生きる季節なのだ。
近くにいないだけで、彼女は確かにこの世界で生きている。
それだけが、唯一の喜びであり、希望だった。
ホルガーは立ち上がり、腰に佩いた剣を抜いた。
月光を浴びて白く光る刀身を掲げる。
「……遠く、離れていても」
月夜の下、最愛の人を想い、静かに瞳を閉じた。
「いつまでも、この剣は……」
――あなたのために。
ルコットは、草原を下る道すがら、吹く風に呼ばれて振り返った。
頭上には、丸く大きな月が、いつになく優しい光を放っていた。




