第七話 婚礼期間 一日目
「この国は、美しい。この国は、決して地図から姿を消して良い国ではない」
スノウは、幼い頃、地方巡察で父とともに見た、見渡す限りの青い山と白銀に輝く湖、そして星を散らしたような小さな花々を思った。
吹き渡る風があまりに爽やかで、思わず涙が浮かんだことも。
「――残るは、東国カタル、そして北の大国、シルヴァ」
英雄と王族の結婚式に浮かれ騒ぐ民を、銀色の王女はただ静かに見下ろしていた。
* * *
工場の並ぶ市街地の大衆食堂も、今日ばかりはお代は結構と、次から次へと大皿を広げ、酒を運び続けていた。
日頃堅実なお客も、素面のものは一人としておらず、歌い、騒ぎ、踊り、店内は活気と笑い声に満ち溢れている。
そこに、麻布のマントを目深に被った一人の男が入店してきた。
男はカウンターの真中に座ると、忙しく手を動かす料理人へと問いかける。
「忙しそうだね。今日はベルツ大将とルコット姫の成婚式なんだって?」
料理人は訝しげに、「あんたぁ他国の人間だな」と眉を上げた。
「え!どうして分かったんだい?」
「訛りさ。そんななよなよした喋り方する男はこの国にはいねぇさ」
そう言うと、料理人は男の前に熱々の厚切り肉を置いた。
「いいのかい?」
「食いな。あんたぁ若ぇし、大方来賓の付き人ってところだろう。式を祝いに来てくれた客に冷や飯を食わせるわけにはいかねぇからな」
男はしばし固まると、恐る恐る一口目を口に運び、次第にがつがつとかき込み始めた。
料理人は豪快に笑うと、隣にふかした芋のパイを置く。
「どんどん食いな。男がそんなちっせぇなりしてちゃあいけねぇよ」
男は、迷わずパイに手を伸ばした。そして飲み込むと同時に口を開く。
「ありがたいよ、おじさん。僕の国は貧乏でね。こんな美味しいご馳走を食べたのは、生まれて初めてだ」
「こりゃまたえらく大げさな兄ちゃんだ」
ぶっきらぼうに受け流しながらも、悪い気はしないらしく、男の前には白身魚のフライが置かれた。
「そんな、本当だよ」
「そんならご主人さまにもっと良いものねだらねぇと」
すると男は歯切れ悪く「そうだねぇ」と頭をかいた。
「ご主人さまも貧乏だからね。僕だけ贅沢するわけにはいかないよ」
「難儀なとこに住んでんだなぁ」
料理人の率直な感想に気を悪くした風もなく、男は笑った。
「そうだね。でも、そこが僕の故郷だから」
「そりゃそうだ。何にしても故郷はいいもんさ。さぁ、どんどん食いな。食い溜めしとけ」
次々と並ぶ食べきれないほどの料理。それを半ば呆然と見つめながら、男は、口の中で呟いた。
「これだけの食料があれば、一体どれだけの民が、無事に冬を生き抜くことができるだろう」
床に溢れた酒、皿に残った食べ滓を、男はちらりと横目で見た。
* * *
「とってもおいしいですね」
厚切り肉をほおばり、にこにこと笑うルコットに、ホルガーは思わず破顔した。
結婚式後の昼食会。
本日の山場を終えたルコットは、すっかり安心しきって食事を楽しんでいた。
一方ホルガーは、仮にも軍の大将として、何とか気を引き締めねばと努力している。
たとえ隣に満面の笑みの新妻が座っていたとしても。
軍と王家の結び付きを、疎ましく思う他国関係者は少なくない。
例えば、東国カタル、そして、北の大国シルヴァ。
両国共に謎の多い、油断のならない国である。
一週間続くこのお祭り騒ぎの間に、何も仕掛けてこないはずがなかった。
「……てっきり結婚式から仕掛けてくると思っていたんだが」
「何か仰いました?」
厚切り肉を切り分けながら、首を傾げる妻に、殺伐とした心が否が応でも静まる。
「いかんいかん」と首を振ったが、浮かれてしまう心はどうしようもなかった。
頭の中に、午前の結婚式の情景が広がる。
ルコットのウェディングドレス姿を思い出すと、どうしようもなく頬が熱くなった。
天にも届かんばかりの大聖堂。
静々と歩む彼女は少し青ざめていたが、進む先の夫と目が合うとほっとしたように微笑んだ。
思わず赤面するホルガーに、内心野次を飛ばす本部所属の騎士たち。
秋の陽の光。色とりどりのステンドグラスに、空気までもがきらきらと輝く。
長らくこの国の歴史を記録し続けてきた、ローレンス老内官は、小さな目をしょぼしょぼと瞬きながら、遥か遠くの壇上で向かい合う二人を、眩しげに見つめていた。
式後、彼の手記にはただ一行、丁寧な筆運びでこう綴られた。
――祝福に満ち溢れた、美しい婚礼であった。
その様子は、詩人に詠まれ、文字に編まれ、吟遊魔鳥に歌われ、遠く辺境の地にまで、瞬く間に広まった。
カタル国境にほど近い、ホルガーの生家、東国辺境、シュタドハイスにまで。