第六十四話 波乱のお茶会
あれから二週間あまり。
私たちは表面上は以前と変わりなく、穏やかな日々を過ごしました。
朝食を共にし、朝のご出勤を見送り、晩のご帰宅をお迎えし、夕食を共に摂る。
会話にぎこちなさもなく、特に夕食時は、一日あったことを互いに報告し合い、ときに笑い合うことさえありました。
もしかして、あの夜の出来事は全て私の夢で、私はありもしない悪夢に怯えているだけなのではないか。
そんなふうに思ったことも、一度や二度ではありません。
それでも、どこかで感じてしまうのです。
胸の隙間に吹き込む冷たい風のような虚しさを。
目が合っているようで、実は彼の目がどこか遠くを見つめていることを。
核心に踏み込もうとすると、いつもすんなりと話題を変えられてしまうことを。
私は朝な夕なにじわりと涙が滲んでくるようになりました。
誰にも相談する気にはなれず、一日をぼんやりと過ごすことが増えていきました。
それでも、時間は平等に過ぎていきます。
とうとう以前伺っていたように、侯爵令嬢リリアンヌ=ハップルテヒさまから、茶会への正式な招待状が届きました。
正直なところ、そんな集まりに出席できるような心境ではなかったのですが、それと前後するようにサファイア姉さまから、上等な小包が送られてきました。
中身はベルベットの茶会用ドレスで、深いワイン色の落ち着いた意匠です。
銀色の刺繍があちこちになされ、随所に宝石が散りばめられています。
添えられたお手紙には、
――これを着てリリアンヌの鼻を明かしてやりなさい。
と書かれていました。
こんなプレゼントをいただいておいて、今更「欠席します」だなんて言えるはずもありません。
私は諦観の境地に至るような心地で、喜んで参加する旨を伝えました。
後ろに控えたヘレンさんが、何か言いたげにじっとこちらを見つめていました。
* * *
「あら、ごきげんよう、ルコットさま。お待ちしていましたわ。素敵なお召し物ね」
「ごきげんよう、リリアンヌさま。本日はお招きありがとうございます」
茶会の会場は、王都のハップルニヒ侯爵別邸の中庭でした。
丁寧に手入れされた優雅な薔薇園。
中央には大きな白テーブルが鎮座し、豪奢なティーセットとお菓子が並んでいます。
真っ白のテーブルクロスが、風にひらひらとはためいていました。
時間より少し早めに伺ったはずなのですが、既に皆さま揃われているようです。
私が席に着くと、「さて」とリリアンヌさまが両手を合わせられました。
「皆さま今日は集まってくださってありがとう。といっても、今日の主役は私じゃないわ。そうでしょう?」
リリアンヌさまは金粉のように輝く巻き髪を揺らして、首をかしげられます。
「海原の姫君、ルコットさま。皆さまもお会いしたかったのではなくて?」
私は、不意に名前を出され、驚きに目を見張ることしかできませんでした。
しかし、皆さまはどこか真意の見えない笑顔で、口々に「えぇ、お会いしたかったですわ」と頷かれています。
私の混乱をよそに、リリアンヌさまは無邪気にお話を続けられました。
「そうでしょう?何ていっても、あのレインヴェール伯とご結婚されたのですもの」
「そうですわ。それもあれほどお熱い式を挙げられて」
「すごかったですわ。私とても驚きました」
「ねぇ、レインヴェール伯はご結婚後どのようなご様子なの?」
「ルコットさま、色々聞かせてくださいね」
降り注ぐ質問の雨に、私は心臓が嫌な音を立てるのを感じました。
後ろに控えていたヘレンさんが「まぁ、何てかしましいの!」と小声で憤慨されます。
何とお答えすれば良いのでしょう。
私は曖昧に笑い返して、「恐縮ですわ」と会釈しました。さぞかし情けない顔になっていることでしょう。
しかし、リリアンヌさまの追撃は止まりませんでした。
「まぁ、謙虚な方ね。のろけ話でも聞かせてくださればよろしいのに。でも、そうね、ルコットさまには恥ずかしくて無理かしら」
後ろでヘレンさんが目を釣り上げられているのがわかります。
あまり社交経験のない私にもわかりました。
リリアンヌさまがとても意地悪な笑みを浮かべられていることに。
「だって、ルコットさまとホルガーさまとでは、全く釣り合っていませんものね」
その言葉は、よく切れるナイフのように、トスッと私の胸に突き刺さりました。
じわじわと見えない傷口から、痛みが広がっていきます。
わかってはいたのです。
そんなことは、自分でも、わかっていたのです。
「だって、あんなに凛々しくてお優しくてお強くて、陛下の信頼もお厚くて、その上裕福でいらっしゃるのよ?それに比べてルコットさまは……」
クスクスとあちこちから笑い声が上がりました。
みなまで言われなくても、わかります。
それに比べて私は、見目も良くない、後ろ盾もない、財力もない、取り立てて長所もない、寂しい生まれの元王女。
何度も心の中で悩んできたことでした。
こんな私が、ホルガーさまの隣に立っていて良いのだろうかと。
リリアンヌさまのお言葉は、そんな私の積もり積もった迷いや悲しみに、真正面から刃を立てたのでした。
もはや自分がどんな顔をしているのかもわかりません。
(……どうか変わらず笑顔を保てていますように)
それは、私の最後の意地でした。
リリアンヌさまはしばらくの間、じっとこちらを観察されていました。
彼女の瞳に灯る異様な熱、そしてある種の冷えた冷静さが、私の背筋を凍らせるようでした。
桜色の唇が、そっと開かれました。
「ねぇ、ルコットさま、私にホルガーさまを譲って頂戴」
何を言われたのか、わかりませんでした。
歌うような口調なのに、声にこもった潜熱が、肌をビリビリと威圧します。
(……譲って頂戴?)
ホルガーさまを……リリアンヌさまに?
意味を捉え始めた頭に、私は唖然としました。
処理の追いつかない感情をよそに、頭の中の理性は「名案じゃないか」と諸手を上げようとしています。
あれほど「自分では釣り合わない」と悩み、「いつか彼の元を離れなければ」と考えていたのです。遅かれ早かれ別れるのならば、早い方が良いでしょう。
何より、あのバーベキューの日以来、私は、妻としても見放されてしまったのです。
これ以上追いすがったところで、惨めさを募らせるだけでした。
では何故、この唇は動かないのでしょう。
こんなにも意固地に、リリアンヌさまから視線を外さないのでしょう。
溢れ出る感情に、蓋ができないのでしょう。
気がつくと、私は生まれて初めての言葉を口にしていました。
「……嫌です。渡せません」
目の前の方々が、一斉に目を見開かれます。
背後のヘレンさんが息をのむ音が聞こえてきました。
私自身でさえ、本当に自分の発した声なのかと戸惑ったほどです。
しかし、それは確かに私の声でした。
私の真実の願いでした。
「ふざけないで……っ!」
顔を紅潮させたリリアンヌさまが、今にも掴みかかりそうな気迫で怒鳴られます。
「あなた、アルシラでの功績で調子に乗っているのね!?そうなんでしょう!そんなことで、ホルガーさまの隣に立てると勘違いなさるなんて!」
思ってもみないことでした。
功績なんて、そんな大それたもの、私にはありません。
「私はそんな……」
そんなつもりはなかった。そう言いかけた言葉も、リリアンヌさまの気迫に飲まれます。
「私は認めないわ!あんな程度でホルガーさまの隣に並び立つなんて!」
彼の隣に並び立てているなんて、思っていません。
そう伝えたいのに、では何故譲らないのかと問われれば、「自分でもわからない」としか答えようがないのです。
ホルガーさまを譲れと言われると、どうしても首を縦に振ることができないのでした。
痺れを切らされたリリアンヌさまは、その場で立ち上がられ、私に冷たい一瞥を投げかけます。
「どうしてもというなら、私の前であなたの功績を見せてみなさい」
「リリアンヌさまの前で?」
抜け殻のように茫然と繰り返すと、リリアンヌさまは冷たく不機嫌に「そう」と仰いました。
「明日からうちの領地に来なさい。あなたに何ができるのか、この目で確かめてあげるわ」
リリアンヌさまのご実家――それは、確か西方のリヒシュータ領ダヴェニス。
フレイローズ一学問が盛んな領地であり、この国の知の中心地でもあります。
学のない私にはおよそ縁のない、気後れするような土地でした。
「もし、あなたが無力で、あの方の妻にはおよそ相応しくないとわかったら、そのときは大人しくホルガーさまを諦めなさい」
ヘレンさんが私の手首を持って強く引きます。
「取り合う必要はありません、ルコットさま。今すぐ帰りましょう」
その綺麗な灰色の目に、怒りと悲しみと焦りが入り混じっています。
私は申し訳ないと内心詫びながら、その手をするりと抜け、リリアンヌさまに向き直りました。
「行きますわ」
「ルコットさま!」
「私は、行きます」
驚いた顔のリリアンヌさまに、少しだけ胸がすっと空きます。
私はなるべく明るくヘレンさんに声をかけました。
「さぁ、帰って支度をしましょう。あまり時間はないようですから」
泣き出しそうなヘレンさんは、「どうして」と低く呟きます。
私はこの思惑を伝えるべきか、暫し悩みました。




