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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第三章 新しい日々
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第六十四話 波乱のお茶会


 あれから二週間あまり。

 私たちは表面上は以前と変わりなく、穏やかな日々を過ごしました。

 朝食を共にし、朝のご出勤を見送り、晩のご帰宅をお迎えし、夕食を共に摂る。

 会話にぎこちなさもなく、特に夕食時は、一日あったことを互いに報告し合い、ときに笑い合うことさえありました。


 もしかして、あの夜の出来事は全て私の夢で、私はありもしない悪夢に怯えているだけなのではないか。

 そんなふうに思ったことも、一度や二度ではありません。


 それでも、どこかで感じてしまうのです。

 胸の隙間に吹き込む冷たい風のような虚しさを。

 目が合っているようで、実は彼の目がどこか遠くを見つめていることを。

 核心に踏み込もうとすると、いつもすんなりと話題を変えられてしまうことを。


 私は朝な夕なにじわりと涙が滲んでくるようになりました。

 誰にも相談する気にはなれず、一日をぼんやりと過ごすことが増えていきました。

 

 それでも、時間は平等に過ぎていきます。

 とうとう以前伺っていたように、侯爵令嬢リリアンヌ=ハップルテヒさまから、茶会への正式な招待状が届きました。

 正直なところ、そんな集まりに出席できるような心境ではなかったのですが、それと前後するようにサファイア姉さまから、上等な小包が送られてきました。


 中身はベルベットの茶会用ドレスで、深いワイン色の落ち着いた意匠です。

 銀色の刺繍があちこちになされ、随所に宝石が散りばめられています。

 添えられたお手紙には、


――これを着てリリアンヌの鼻を明かしてやりなさい。


 と書かれていました。

 こんなプレゼントをいただいておいて、今更「欠席します」だなんて言えるはずもありません。

 私は諦観の境地に至るような心地で、喜んで参加する旨を伝えました。


 後ろに控えたヘレンさんが、何か言いたげにじっとこちらを見つめていました。



* * *



「あら、ごきげんよう、ルコットさま。お待ちしていましたわ。素敵なお召し物ね」

「ごきげんよう、リリアンヌさま。本日はお招きありがとうございます」


 茶会の会場は、王都のハップルニヒ侯爵別邸の中庭でした。

 丁寧に手入れされた優雅な薔薇園。

 中央には大きな白テーブルが鎮座し、豪奢なティーセットとお菓子が並んでいます。

 真っ白のテーブルクロスが、風にひらひらとはためいていました。


 時間より少し早めに伺ったはずなのですが、既に皆さま揃われているようです。

 私が席に着くと、「さて」とリリアンヌさまが両手を合わせられました。


「皆さま今日は集まってくださってありがとう。といっても、今日の主役は私じゃないわ。そうでしょう?」


 リリアンヌさまは金粉のように輝く巻き髪を揺らして、首をかしげられます。


「海原の姫君、ルコットさま。皆さまもお会いしたかったのではなくて?」


 私は、不意に名前を出され、驚きに目を見張ることしかできませんでした。

 しかし、皆さまはどこか真意の見えない笑顔で、口々に「えぇ、お会いしたかったですわ」と頷かれています。

 私の混乱をよそに、リリアンヌさまは無邪気にお話を続けられました。


「そうでしょう?何ていっても、あのレインヴェール伯とご結婚されたのですもの」

「そうですわ。それもあれほどお熱い式を挙げられて」

「すごかったですわ。私とても驚きました」

「ねぇ、レインヴェール伯はご結婚後どのようなご様子なの?」

「ルコットさま、色々聞かせてくださいね」


 降り注ぐ質問の雨に、私は心臓が嫌な音を立てるのを感じました。

 後ろに控えていたヘレンさんが「まぁ、何てかしましいの!」と小声で憤慨されます。


 何とお答えすれば良いのでしょう。

 私は曖昧に笑い返して、「恐縮ですわ」と会釈しました。さぞかし情けない顔になっていることでしょう。

 しかし、リリアンヌさまの追撃は止まりませんでした。


「まぁ、謙虚な方ね。のろけ話でも聞かせてくださればよろしいのに。でも、そうね、ルコットさまには恥ずかしくて無理かしら」


 後ろでヘレンさんが目を釣り上げられているのがわかります。

 あまり社交経験のない私にもわかりました。

 リリアンヌさまがとても意地悪な笑みを浮かべられていることに。


「だって、ルコットさまとホルガーさまとでは、全く釣り合っていませんものね」


 その言葉は、よく切れるナイフのように、トスッと私の胸に突き刺さりました。

 じわじわと見えない傷口から、痛みが広がっていきます。


 わかってはいたのです。

 そんなことは、自分でも、わかっていたのです。


「だって、あんなに凛々しくてお優しくてお強くて、陛下の信頼もお厚くて、その上裕福でいらっしゃるのよ?それに比べてルコットさまは……」


 クスクスとあちこちから笑い声が上がりました。

 みなまで言われなくても、わかります。

 それに比べて私は、見目も良くない、後ろ盾もない、財力もない、取り立てて長所もない、寂しい生まれの元王女。

 何度も心の中で悩んできたことでした。

 こんな私が、ホルガーさまの隣に立っていて良いのだろうかと。

 リリアンヌさまのお言葉は、そんな私の積もり積もった迷いや悲しみに、真正面から刃を立てたのでした。

 もはや自分がどんな顔をしているのかもわかりません。


(……どうか変わらず笑顔を保てていますように)


 それは、私の最後の意地でした。

 リリアンヌさまはしばらくの間、じっとこちらを観察されていました。

 彼女の瞳に灯る異様な熱、そしてある種の冷えた冷静さが、私の背筋を凍らせるようでした。

 桜色の唇が、そっと開かれました。


「ねぇ、ルコットさま、私にホルガーさまを譲って頂戴」


 何を言われたのか、わかりませんでした。

 歌うような口調なのに、声にこもった潜熱が、肌をビリビリと威圧します。

 

(……譲って頂戴?)


 ホルガーさまを……リリアンヌさまに?

 意味を捉え始めた頭に、私は唖然としました。


 処理の追いつかない感情をよそに、頭の中の理性は「名案じゃないか」と諸手を上げようとしています。

 あれほど「自分では釣り合わない」と悩み、「いつか彼の元を離れなければ」と考えていたのです。遅かれ早かれ別れるのならば、早い方が良いでしょう。

 何より、あのバーベキューの日以来、私は、妻としても見放されてしまったのです。

 これ以上追いすがったところで、惨めさを募らせるだけでした。


 では何故、この唇は動かないのでしょう。

 こんなにも意固地に、リリアンヌさまから視線を外さないのでしょう。

 溢れ出る感情に、蓋ができないのでしょう。


 気がつくと、私は生まれて初めての言葉を口にしていました。


「……嫌です。渡せません」


 目の前の方々が、一斉に目を見開かれます。

 背後のヘレンさんが息をのむ音が聞こえてきました。

 私自身でさえ、本当に自分の発した声なのかと戸惑ったほどです。

 しかし、それは確かに私の声でした。

 私の真実の願いでした。


「ふざけないで……っ!」


 顔を紅潮させたリリアンヌさまが、今にも掴みかかりそうな気迫で怒鳴られます。


「あなた、アルシラでの功績で調子に乗っているのね!?そうなんでしょう!そんなことで、ホルガーさまの隣に立てると勘違いなさるなんて!」


 思ってもみないことでした。

 功績なんて、そんな大それたもの、私にはありません。

 

「私はそんな……」


 そんなつもりはなかった。そう言いかけた言葉も、リリアンヌさまの気迫に飲まれます。


「私は認めないわ!あんな程度でホルガーさまの隣に並び立つなんて!」


 彼の隣に並び立てているなんて、思っていません。

 そう伝えたいのに、では何故譲らないのかと問われれば、「自分でもわからない」としか答えようがないのです。

 ホルガーさまを譲れと言われると、どうしても首を縦に振ることができないのでした。


 痺れを切らされたリリアンヌさまは、その場で立ち上がられ、私に冷たい一瞥を投げかけます。


「どうしてもというなら、私の前であなたの功績を見せてみなさい」

「リリアンヌさまの前で?」


 抜け殻のように茫然と繰り返すと、リリアンヌさまは冷たく不機嫌に「そう」と仰いました。


「明日からうちの領地に来なさい。あなたに何ができるのか、この目で確かめてあげるわ」


 リリアンヌさまのご実家――それは、確か西方のリヒシュータ領ダヴェニス。

 フレイローズ一学問が盛んな領地であり、この国の知の中心地でもあります。

 学のない私にはおよそ縁のない、気後れするような土地でした。


「もし、あなたが無力で、あの方の妻にはおよそ相応しくないとわかったら、そのときは大人しくホルガーさまを諦めなさい」


 ヘレンさんが私の手首を持って強く引きます。


「取り合う必要はありません、ルコットさま。今すぐ帰りましょう」


 その綺麗な灰色の目に、怒りと悲しみと焦りが入り混じっています。

 私は申し訳ないと内心詫びながら、その手をするりと抜け、リリアンヌさまに向き直りました。


「行きますわ」

「ルコットさま!」

「私は、行きます」


 驚いた顔のリリアンヌさまに、少しだけ胸がすっと空きます。

 私はなるべく明るくヘレンさんに声をかけました。


「さぁ、帰って支度をしましょう。あまり時間はないようですから」


 泣き出しそうなヘレンさんは、「どうして」と低く呟きます。

 私はこの思惑を伝えるべきか、暫し悩みました。





 

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