第六十三話 バーベキュー
暗闇の中でパチパチと爆ぜる炭。
サンルームの大きな窓から漏れ出てくる明かりに、食欲をくすぐる匂い。
夜風はだいぶ冷たくなってきていますが、そんなことは気になりませんでした。
バーベキューコンロの傍でハイドルさまがどんどんお肉を焼かれています。
隣でロゼさまが「お野菜も焼いてくださいな」と微笑まれていました。
夜風は体に障るからと、サンルームの出入り口付近にふわふわのひざ掛けを用意された私の席は、室内の温かな空気としんとした夜の気配を感じることができます。
見上げると、煙がもくもくと夜空に溶けていました。
「追加の肉が焼けましたよ」
隣に置かれた丸テーブルに、ホルガーさまが綺麗に盛り付けてくださったお皿が載せられます。
意外と手先が器用でいらっしゃるんだなと私はぼんやり思いました。
「ありがとうございます」
「いえ。俺もここで食べていいですか?」
「はい、勿論です」
私が頷くと、ホルガーさまは向こうにあった椅子をひょいと持って来られました。
「いかがですか?」
「かぼちゃが甘くてとても美味しいです」
「旬ですからね」
炭火で炙ったほくほくとしたかぼちゃに夢中になっていると、ホルガーさまが穏やかに笑われていました。
「すみません、私食べてばかりで」
「え?どうして謝られるんですか?」
きょとんとされるホルガーさまを見ていると、余計に顔に熱が集まります。
「だって」と俯かずにはいられませんでした。
「私、初めてお会いした日から、食べてばかりですわ」
蚊の鳴くような声でそう呟くと、ホルガーさまは一瞬の沈黙の後、弾かれたように笑われました。
今度は私がきょとんとせずにはいられません。
一体何故笑われているのでしょうか。
「す、すみません……そんなこと、気にする必要など全くありませんよ。俺の食べる量に比べれば、小鳥の餌のようです」
「で、でも、私とホルガーさまとでは、性別も違います。『女性は小食が良い』といわれていますし……」
ホルガーさまは、顔を押さえられ、何故か深呼吸をされました。
私がしつこく食い下がったのが良くなかったのかもしれません。
しかし、私の心配をよそに、顔を上げられたホルガーさまはどこか優しい微笑みを浮かべられていました。
「どうして急にそんなことを?」
どうして?
どうしてなのでしょう。
これまではそんなこと、気にした試しもありませんでした。
ただ今日、初めてロゼさまとお会いしたときに、あまりの美しさに同性ながら目を奪われてしまったのです。
ほっそりとした白い手指に、聖女さまのような面差し、くるくると動き回る妖精のような肢体。
こんな美しい方の元で育たれたホルガーさまは、私の姿を見たとき、さぞがっかりされたに違いないと思ってしまいました。
いえ、真実はどうあれ、私自身が恥ずかしかったのです。
私は、不思議そうな顔をされるホルガーさまに、たどたどしくもそうお伝えしました。
話しているうちにだんだん止まらなくなってしまい、涙声が混じってしまいます。
それでも、ホルガーさまはじっと私の取り留めのない話を聞いてくださいました。
最後に、
「こんな私なんかより、もっと相応しい方が他にいらっしゃるはずです」
そう呟くと、ホルガーさまは、お顔を青くされて、唇を震わせました。
悲しみと困惑と怒り。
全てがない交ぜになったような表情は、これまで見たことがありません。
指先が震えてらっしゃるのか、フォークがカランと踏み石の上に落ちました。
「……俺の妻でいられる自信がないとは、そういう意味だったのですね」
掠れた声に、焦点の合わない瞳。思わず背筋にぞっと冷たいものが走りました。
私はただ、息を詰めて彼を見つめることしかできません。
ホルガーさまは本物とは思えないほど冷えた目で、私に視線を向けられました。
「……仮に、俺と離縁されるとして、どうされるおつもりなのですか」
離縁。
彼の口から発されたその言葉は、私の胸に大きな穴を開けました。自業自得なのに、溢れてくるのは、悲しみと切なさばかりです。
それでも、私は王族として最低限身につけた笑顔を貼り付けました。
「きっと、どうにでもなりますわ」
本当に、これが自分の声なのかと驚くほど、落ち着いた声色でした。
ホルガーさまは、更に眉間のシワを増やされると、
「そうですね。エドワードもいることですし」
と吐き捨てられました。
こんなホルガーさまは、見たことも聞いたこともありません。
私は茫然と、「エドワードさんですか……?」と鸚鵡返しすることしかできませんでした。
何故今ここでエドワードさんが出てくるのでしょうか。
わけがわからず問いかけようとすると、ホルガーさまはいっそう苛立たしげに、立ち上がられました。
何か言って引き留めないと。
そう思うのに、相応しい言葉は一つも浮かんできません。
指先から、体温が引いていくのがわかりました。
「ホ、ホルガーさま……!」
悲鳴のような声が喉の奥から溢れます。
ぼろぼろと涙が顎を伝って地面に濃いシミを作っていきました。
ホルガーさまは数歩先で立ち止まられると、じゃりっと音を立ててこちらを振り向かれました。
その顔には、先ほどまでの鋭利な冷たさはなく、代わりに何か深い影がかかっているような気がしました。
乾いた、作り物めいた、ぎこちない笑顔でした。
「取り乱してしまい申し訳ありません、殿下。この話はまた今度にしましょう」
穏やかで、静かな声でした。
しかし私はそれが何故かとても悲しく、言葉さえ発することができません。
このとき、私は無理矢理にでもホルガーさまの裾を掴み、「行かないでください」と叫ぶべきだったのです。
何が何でも話しを続け、「何故そんな顔をされるのですか」と問い詰めていれば、彼は答えてくださったかもしれません。
しかし結局、私はその場から一歩たりとも動けませんでした。
このとき、私たちの間にはある明確な線が引かれたのです。
私がそれに気づいたときには、もう全てが遅すぎました。
そのことを、最後の最後まで、後悔することになるなんて、一体誰が予測できたでしょうか。
どんな状況でも私の心を奮い起こすのは、いつだって、彼の温かな笑顔だけだったというのに。




