第六十話 おかえりなさい
ホルガーが屋敷の門をくぐったのは夕方のことだった。
少し冷える道を急ぎながら、窓からこぼれる灯りにほっとする。
ドアを開けると、廊下の先からパタパタと急いだ足音が聞こえてきた。
「ホルガーさま!おかえりなさい!」
満面の笑みのルコットに、ホルガーも相好を崩す。
「はい、ただいま戻りました」
長らく戦場に暮らし、王都へ戻ってからは寮で生活していた彼にとって、こんな幸せは感じたことのないものだった。
込み上げてくる多幸を感じながら、ルコットの温かな手を取る。
「殿下、傷に障ります。走ってはなりませんよ。歩くときはゆっくりと」
無骨で大きな手が、まるで壊れ物を扱うようにそっとルコットを導く。
「今夜のドレスもとてもよくお似合いです。秋の空のように澄んだ色で、殿下の御髪に映えています」
「あ、え……?あ、ありがとう、ございます……?」
ルコットは反射的に礼を言いながらも、首をひねった。
(今夜のホルガーさまは、熱でもおありなのでしょうか)
「ホルガーさま、本日は体調が優れないのですか?」
「え?いえ……そういうわけでは」
それなら一体どういうわけなのだろう。
ルコットは訝しんだ。
(軍の方々も、お義姉さまもお義兄さまも、ホルガーさまは不器用な方なのだと仰ってましたのに)
何か理由があるのか。
そういえば、とルコットは姉との茶会で度々出ていた話題を思い出す。
何でも夫というのは、何か後ろ暗いことがあるとき、手放しで妻を褒め、機嫌を取ろうとするらしい。
ホルガーに限ってそれはないとは思うものの、こんなに凛々しい立姿で爽やかに賛辞を贈られるのは、何より目と耳に毒だった。
「ホルガーさま、何だか私、突然現れた幻獣に霞をかけられたような気分ですわ」
複雑な胸の内をたどたどしくそう言葉にし、夫婦だからといって無理に褒めなくてもいいのだと笑う。
「そんなことより、ホルガーさま、今日のごはんはトマトクリーム蟹グラタンなのです。魚介の旨味がぎゅっと詰まった自信作なのですよ」
ホルガーは表情筋を一切動かすことなく、心の中で泣いた。
* * *
「聞いてくれ」
通信魔水晶をフリッツのものと繋ぐと、そこは軍の寮の食堂だった。
晩酌をしていた部下たちが一斉に寄ってくる。
「お、大将じゃないですか」
「どうしたんですか、情けない顔をして」
「殿下のドレスを褒めたら『幻獣に霞をかけられたよう』だと言われた」
アルコールが入って笑い上戸になった部下たちが、「何だそりゃあ」と吹き出す。
呆れ顔のフリッツが、枝豆を口に放り込んだ。
「奥さんに珍獣扱いされる大将って」
「幻!獣!だ!」
心底どちらでもいいとフリッツは無言で酒を煽った。
よく冷えたビールがうまい。この一杯のために生きていると言ってもいいほどだ。
「……あとは上司の泣き言がなければなお良し」
「フリッツ!聞こえているぞ」
必死なホルガーに、フリッツはため息をついて振り向いた。
「なぁ、何が悪かったんだ。これまで令嬢を褒めてあんな反応はされたことがない」
「でしょうね、この天然鈍感大将は」
近くにいた他部隊の面々までもが、何だなんだと寄ってくる。
「奥さんに愛が伝わらないんですって」
リヴァル中将が笑うと、第二部隊隊長フラン中将はふんと嫌味に笑った。
「お前のような男に結婚など十年早かったということだ、ホルガー」
「そんなこと言わずにフラン、何か知恵を貸してくれ!お前モテるだろ、金髪の貴公子さまじゃないか」
「気色悪いこと言うな。大体モテるのはお前も同じだろ」
首をかしげるホルガーに、フランは舌打ちした。
相変わらず能天気でお人好しでイライラする。
いつか一発お見舞いしてやりたい。
無論他の奴がホルガーに拳を向けたら、ただではおかないが。
「あの二人もまたこじらせてますよね」
アサトが可笑しそうにはにかむと、フランは一つ咳払いして、「しかしまぁ、お前のような奴を夫に貰ってくれるのは、彼女ぐらいのものだろう。仕方ない、協力してやる」と向き直った。
何だかんだで、フランもルコットのことは、「なかなか骨のある令嬢だ」と認めているのだ。
「そもそも何故お前は妻のことを『殿下』と呼んでいるんだ」
「確かに、自分の奥さんを『殿下』呼びしてる人ってなかなかいませんよね」
ホルガーは視線を泳がせ、「では何とお呼びすればいいんだ」と蚊の鳴くような声で問うた。
「何とも何も、名前でいいだろ」
「名前……!?」
雷に打たれたような衝撃に、ホルガーはその場にへたり込んだ。
そんなこと、できるはずがない。
いや、正確に言えば一度だけ、彼女が湖に落ちたとき、焦るあまりに呼んでしまったことはあるのだが。
「何をそんなに驚いてるんですか。奥さんを名前呼びなんて珍しいことじゃないでしょう」
「お前……名前だぞ!?彼女の固有名詞だ!」
「知ってますよ」
もはや相手にもしていないフリッツとは対照的に、律儀なフランは言葉もなく引いていた。
「すみませんね、フラン中将」
「いや……結婚すると皆こうなるのか」
「いや、多分うちの大将だけです。奥さんを神格化する勢いです」
こじらせ方のスケールが違った。
フランは暫く言葉を失っていたが、決意を固めてもう一度咳払いした。
「しかしホルガー、そのままでは一向に二人の距離は縮まらない。お前が勇気を持って歩み寄らなければ」
「勇気……」
「あぁ、そもそもお前だって妻の名を呼びたいだろう」
「それは……そうだ」
ようやく腹がくくれたホルガーは、あとはどうやって呼び方を切り替えるかという話題に移っていった。
「フラン中将、何だかんだで面倒見がいいんですよね」
「あんなにツンケンしてるのに人望厚いもんなぁ」
たとえ相手がいけ好かない好敵手でも、悩んでいる人間を放っておけないのだろう。
「お前の性格なら、『名前で呼んでもいいですか』と一言断る方が自然だろう。あとは……お前今自室にいるのか?」
「え?あぁ」
「同衾しないのか?」
ホルガーは空っぽの口の中で激しく咳き込んだ。
正直なところ、一緒に住むということは……と微かに期待はしていた。
だから夕食後、「それではまた明日。おやすみなさいませ」と彼女が頭を下げたとき、少しの落胆がなかったといえば嘘になる。
否、白状するならば、今世紀最大の落胆だった。寂しかった。
しかしそんなこと、ルコットに言えるはずもない。
彼女の望まぬことはしたくなかったし、怖がらせたくもない。何より恐ろしいのは、彼女に嫌われることだった。
何もせず、共に横になるだけでも良かった。
誓って手は出さないと宣言しよう。
苦しい夜になるだろうが、彼女の安らかな寝顔を一晩中見られるなら、何にだって耐えられる。
しかしきっと、こんな提案は彼女を困らせてしまうだけだ。
「お前は!彼女のことになると!何故そんなに悲観的なんだ!」
ダンッ!とテーブルを叩いたフランのジョッキに、フリッツが無言でビールを注いだ。
「とにかく、徐々に距離を縮めるぞ!」
「そうですね。いきなり同衾は大将にもハードルが高いでしょうし」
「……心強い」
ホルガーが両親から「ルコットちゃんのお見舞いに行くわね」という手紙を受け取り、低い唸り声を上げるまであと数十分。




