第五十九話 嬉しい悲鳴
「え!?本当ですか!?」
通信魔水晶を見つめ、ルコットは無意識のうちに叫んでいた。
水晶越しにホルガーが目を丸くしているが、そんなことも気にならない。
ただただ湧き上がる嬉しさでいっぱいだった。
「本当に、今日から一緒に暮らせるのですか!?」
子どものように弾んだ声に、紅潮した頬。
本人は気づいていなかったが、そのきらきらとした表情は、どんなものより魅力的にホルガーの瞳に映った。
「あ、え、は、はい…」
しどろもどろになる答えも気にならないようで、小さく「……嬉しい」と呟いている。
聞こえているとは思っていないのだろうが、聞こえてしまったホルガーは、内心吹きすさぶ嵐のように悶えていた。
「晩ごはんを作ってお待ちしていますね!あ、何かリクエストはありますか?」
「…殿下の作るものなら、何でも」
魂の抜けかけたホルガーが答えると、ルコットはいっそう嬉しげにはにかんだ。
「張り切りすぎてしまいそうです。ホルガーさま、お仕事頑張ってくださいね」
「は、はい……あ、殿下、くれぐれも傷に障らないように。無理だけはしないでください」
「はーい!」
注意を聞いているのかいないのか、歌うような返事を最後に通信が切れた。
机に突っ伏したホルガーは、組んだ腕に頭を埋め、決意を固める。
さっさと仕事を終わらせて、早く家に帰ろうと。
「……妻が可愛すぎて俺は死ぬかもしれない」
側で聞いていた部下たちは、無理もないと頷き合った。
* * *
「エドワードさん!ホルガーさまが本日から屋敷に戻られるそうですわ!」
セラーにワインを運んでいたエドワードは、「え?」と声を上げた。
「いえ、まず奥さま、そのように走り回ってはいけません。それから、私に『さん』を付けてはいけませんと何度も申し上げておりますのに」
淡々としながらも、「失礼」と今日の予定を確認する。
「それではすぐに当主の部屋を整えましょう。手配はお任せください。それから夕食は…」
「あ!夕食は私が作りますわ!」
「…はい?」
エドワードは怪訝に眉をひそめた。
「奥さまが、ですか?確かにこの屋敷にはまだコックがいませんが、他所から借りてくることも可能です。最悪、私が何とかいたします」
「いえ、私が作りたいのです」
エドワードは手に持っていたワインを置き、音もなく向き直る。
背の高い彼が眼前に迫ると、ルコットは少々たじろいだ。彼が無表情であることも災いしたのかもしれない。
「ご無礼を承知で申し上げますが、奥さま、一般的に女主人はコックの真似事はいたしません」
「は、はい…」
「これまではそういったしがらみはなかったのかもしれませんが、今あなたさまはレインヴェール伯夫人なのです。私がここへ来た以上、あなたさまを世間の笑い草にはさせません。どうかお控えください」
ルコットは、茫然とエドワードの話を聞いていた。
彼の言うことはもっともだった。
屋敷の中で、使用人には使用人の、女主人には女主人の役割がある。
これまでは、ばあやと二人きりで暮らしてきたため、できる方ができることをしてきた。
しかし本来、その垣根を越えないことは、皆が守るべきマナーなのだ。
「すみません……私、そんなつもりは全然なくて」
ただ、彼を喜ばせたかった。
作った料理を食べてほしかった。
ただただそれだけだったのだ。
恥ずかしかった。
仮にも一国の王女であった自分が、屋敷の女主人としての常識さえ備えていないなんて。
俯いた頬に、ぽろぽろと涙が伝う。
エドワードは、ぎょっと目を見開いた。
「お、奥さま……あの、私は…」
「あ!!エドワードさん!とうとう泣かせましたね!」
そこへ、バケツにモップを持ったヘレンが駆けつけた。
どうやら遠目に見守っていたらしい。
「いいじゃないですか、料理くらい。誰も困らないでしょう?」
「しかし、奥さまに使用人の真似事をさせるなど…」
反駁するエドワードに、ヘレンはずいと指を差し出した。
「いーい?エドワードさん、料理は奥さまの趣味なんです」
「……趣味?」
ぽかんとするエドワードに、「そう」と頷く。
「お裁縫や刺繍と同じです。楽器演奏が好きな令嬢がいるように、奥さまは料理が好きなんです」
「そうなんですか?」
遠慮がちに尋ねる声に、ルコットは小さく頷いた。
「好きなことに貴賎はありません。好きを押し殺す必要はなんてない。それが彼女の個性なんだから。そうでしょう?」
その通りだとエドワードは頷いた。
そもそも、彼女から好きを取り上げるつもりなどなかった。
ただ純粋に、彼女がそこまでする必要はないのだと伝えたかったのだ。
「奥さま、申し訳ありません。私はあなたさまの趣味を否定するつもりなどなかったのです」
「わかっています、どうか謝らないでください」
首を振るたびに散る涙に、心臓を掴まれたかのようだった。
「奥さま、どうか泣かないで…」
「違うんです、この涙は、ただ自分が情けなくて」
ルコットはぐいっと両手で目を抑えると、「顔を洗ってきますね」と駆けて行った。
「情けない…?」
立ち尽くすエドワードに、ヘレンは硬い表情で答える。
「私と出会ったときも同じようなことを仰ってました。『最近、悩んでしまうことが多くて』と」
「悩んでしまうことですか」
エドワードがここへ来てから、彼女はいつも笑っていた。朝起きてから夜眠るまでずっと。
言葉尻のきつい小言も今日が初めてではない。そもそも、エドワードは柔らかい言葉を選ぶのが得意ではなかった。
それでも、彼女は笑っていた。
涙を見せたことなどなかったのだ。
「悩みの種は何なのでしょうか」
「わかりませんが、色々積み重なっているのかもしれません」
そこへ、ばあやがゆっくりとやって来た。
ほう、とため息をつき、二人の隣に並ぶ。
「まぁ、全ての悩みの核は旦那さまのことでしょうね」
言葉には出さなかったが、二人も何となくそんな気はしていた。
「このまま悩んでいたら段々疲弊していってしまうんじゃないかしら」
現に、最近のルコットは無意識のため息が増えているように思われる。
ヘレンは心配げに俯いた。
一方ばあやは幾分冷静に腕を組む。
「しかし、あの状態の奥さまを旦那さまは放っておかれないでしょう。何か策を講じてらっしゃるはずです」
「問題は、旦那さまに女性の扱いが期待できないところですね」
最後に爆弾を落とし、エドワードはさっさと立ち去って行った。
残された二人は顔を見合わせ、ひときわ深いため息をつく。
「私もそんな気がします」
「まぁ、なるようにしかなりませんよ」
三人には知る由もない。
ホルガーの母君、ロゼ=ベルツ夫人が、娘時代「見た目は白百合、中身は鬼、そのギャップがたまらない!」と男たちの間で半ば恐れられ、半ば憧憬を集めていたことを。
東方の覇者と恐れられたホルガーの父、ハイドル=ベルツを、完全に降参させてしまったこと。
そして、その母の元で育ったオルト、ルイ、ホルガーには、殊に女性に対するマナーが徹底的に叩き込まれているということを。
本人にその自覚は全くなかったけれど。
ともあれ、ルコットを前にするとそんなマナーなどどこかに吹き飛んでしまうのだから、恋とはままならぬものである。
* * *
「あなた、ルコットちゃんが王都に戻ったそうよ」
淡いベージュの巻き毛を揺らし、嬉しげに駆け込んできた妻に、ハイドルは微かに微笑んだ。
「そうか」
「私もうオルトとルイを待てないわ。怪我をしているのですって。一刻も早く二人でお見舞いに行きましょう?」
ハイドルは「何?怪我?」と眉間にしわを寄せる。
凶悪な形相であったが、本人はただ純粋に義娘を心配しているだけである。
「しかし、怪我をしているときに訪ねては、迷惑になるのではないか?」
「でも、私心配で心配で……」
よよと泣くロゼに、ハイドルは眉を下げた。
こうなってしまってはもう、自分では妻を説得することはできない。
「……わかった、手紙を書こう」
「まぁ、あなた!嬉しいわ!ありがとう!」
ぱっと顔を上げたロゼは、「こうしてはいられないわ」と立ち上がる。
「あなた、ルコットちゃんへの贈り物を買いに行きましょう!何せ私たち結婚祝いさえ贈ってないのよ!」
「そりゃ、結婚することを知らされてなかったからな……」
全くあの愚息は困ったものだと呟きながら、ハイドルも心なしか嬉しげに立ち上がった。




