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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第三章 新しい日々
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第五十七話 客間での治療


「そういうわけで、私はこの屋敷に来たのです」


 エドワードが話し終えると、客間の面々は、皆目を丸くして彼を見つめた。


「つまり、君はレインヴェール伯夫妻に惹かれて、この屋敷に来たということかい?」


 ハントの問いかけに、エドワードは至極冷静に頷く。


「はい、その通りです」


 いわく、王宮内で偶然、執事募集を小耳に挟み、すぐに前の職場を辞職し、この屋敷に駆けつけたのだとか。


「先を越されないうちにと、かなり焦りました」


 アスラは豪快に笑い、エドワードの背をバシバシと叩いた。


「ルコットちゃんに焦がれるなんて、君はなかなか見る目があるじゃないか!」


 ホルガーは僅かに肩を揺らすと、誤魔化すように紅茶を一気飲みする。

 執事エドワードは静かにそのカップを満たした。


「どうかされましたか?」


 ルコットが心配げにホルガーを覗き込む。

 対するホルガーは、「いいえ、何でもありません」と視線を逸らした。


 マシューが義弟を気遣うように「ホルガーくん、このヌガー、美味しいよ」と声をかける。

 アスラはこっそりルコットに耳打ちした。


「あいつ、気が気じゃないのさ」

「え?」


 きょとんとしていると、ヘレンが「本当に鈍いんだから」と苦笑する。


「ハームズワース家といえば、一大名家でしょう?いわゆる優良物件じゃない」


 ルコットはフロランタンを飲み込むと、首をかしげる。


「優良物件……」

「そうよ。美男子ハンサムで、頭が良くて、要領もいい。家出中だけどお金もある。普通、世の女性たちは放っておかないでしょう?」

「えぇ、そうでしょうね……?」


 ばあやは両手を上げて小さく首を振った。

 ルコットの目には結局、どんな「優良物件」も映り込まないのだろう。


「愚弟は何を不安に思うことがあるんだろうね。ここまで想われていながら」


 アスラの呟きに、ヘレンが苦笑した。


「……まぁ、それに関しては、ルコットにも責任があるというか……ちょっとした行き違いがあるというか」


――私は、ホルガーさまの妻でいられる自信がないんです。


 あれから、二人の間にその手の話題は出ていない。

 しかし、あんな言葉を聞いて、不安に思わない夫はいないだろう。


「確かめればいいじゃないか。『どういう意味だったんですか?』と」

「……タイミングが掴めないのかもしれませんわ」

「まったく、ヘタレめ」


 こそこそと話しをするアスラとヘレン。

 そのとき、隣室で薬を煎じていたフュナが入室してきた。

 唐草模様の繊細な刺繍の入った袴が、彼女の雰囲気にとてもよく合っている。

 しかし、そのふんわりとした服装とは対照的に、彼女の表情は固い。

 手元の盆には数種類のすり鉢が載っていた。


「ルコットさま、薬ができましたわ。さぁ、傷を見せてください」


 男性陣を追い立て、扉を閉めると、フュナは傷口を一つひとつ検分した。

 どこも消毒され清潔に保たれていたためか、小さな傷は塞がりかけていたが、一部熱を持っているところもあった。

 特に胸元の傷は、周囲が赤く腫れてしまっている。


「まぁ、ルコットさま、これは痛かったでしょう」


 覗き込んだヘレンとばあや、アスラまでもが、はっと息を飲んだ。


「ルコットちゃん、君、こんな状態で……」

「いえ、昨日までそれほどひどくはなかったのです。それに、痛みはあまりなくて……」


 四人は、眉をひそめて黙り込んだ。

 とりあえず、今は治療が先決だ。


「まず、大きな傷口の殺菌と、体内に入った菌を抑えます。流水と軟膏、あとは飲み薬です」


 全身点検して、洗い流し、軟膏を塗ったガーゼで蓋をした。日に一度替えるようにと注意して、煎じ薬を飲ませる。こちらは一日三回だ。


「ルコットさま、赤くなっているということは、細菌が入り込んでいるということです。この赤みがもっと広がっていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれません。今だって、とても危ない状態です」


 そのとき、廊下の扉が、ばんっと勢いよく開かれた。

 一同は一斉に振り向く。

 そこには、強張った表情のホルガーが立っていた。


 衝立のかげに裸同然のルコットがいるというのに、その顔は赤らむどころか蒼白だった。

 言葉も見つからないのか、茫然とフュナの方を見つめている。

 フュナもまた、静かにホルガーを見返した。


「……フュナ姫、本当なのですか。殿下の傷はそこまで悪かったのですか」


 誰もが返事を躊躇うような、生気のない声色だった。

 しかしフュナは、それに答えるのが薬草学を嗜む者の義務であると知っていた。


「はい。 今処方したものも、最も強い殺菌薬です。副作用も懸念されますから、どうかしばらくは安静に。私は容態をマシュー殿にお伝えしてきます」


 フュナが退室するのと同時に、アスラとヘレン、ばあやも廊下へ出て行った。

 衝立越しに、ホルガーとルコットは二人きりで向かい合う。

 互いに姿は見えなかったが、気配は確かに感じられた。


「……殿下」


 ルコットの胸はぎゅっと締め付けられた。


(……そんな声で呼ばないでください)


 込み上げてくるものを抑え込み、「はい」と返事をする。

 しばらくの間ののち、ホルガーはまた口を開いた。


「……俺は、感染症が恐ろしいことくらい、知っていたはずなのです。いえ、軍人なら誰だって知っています。どんな小さな傷も侮ってはならないと」


 それからまた、暫し沈黙が落ちる。

 ルコットは脈打つ鼓動を押さえてその場に立ち尽くした。


「……それなのに、俺はあろうことか、一番大切な人の傷を侮ってしまった。直接傷口を確かめもせずに、軍の支給品の傷薬とガーゼを渡し、安心しきっていた。専門家を呼ぶのも二の次に…」

 

 ルコットは眉を下げてゆるゆると首を振った。


「違います、ホルガーさま。私が大したことはないと申し上げたのです。治療は登城後にしたいとお願いしたのも私です」


 ホルガーは、唇を引き結ぶと、床をきつく睨んだ。

 力を込められた拳がぐっと音を立てた。


「それでも、俺は気づかなければなりませんでした」


 否、気づきたかった。

 我慢強く控えめな彼女の性格も知っていた。

 ルコットやヘレンに、刃物傷の知識がないことくらい明白だったのに。


「今だって、俺は、何をして差し上げることもできません」


 ルコットは、困ったように、そしてどこか諦めたように笑った。


「仕方ありませんわ。だって、ホルガーさまに私の肌をお見せするわけにはいきませんもの」


 王家と陸軍を結びつけるための形ばかりの婚姻。

 そこで選ばれたのが、たまたま自分だっただけ。

 いずれ後継ぎをと望まれることもあるかもしれない。離縁されないのなら、それこそ正妻の役割でもある。

 しかし今はまだそれさえ躊躇われているのだから。

 

(……お目汚しになるとわかっていながら、傷を見ていただくわけにはまいりませんもの)


 ホルガーは側頭部をガンと打たれたような衝撃に襲われた。





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