第五十七話 客間での治療
「そういうわけで、私はこの屋敷に来たのです」
エドワードが話し終えると、客間の面々は、皆目を丸くして彼を見つめた。
「つまり、君はレインヴェール伯夫妻に惹かれて、この屋敷に来たということかい?」
ハントの問いかけに、エドワードは至極冷静に頷く。
「はい、その通りです」
いわく、王宮内で偶然、執事募集を小耳に挟み、すぐに前の職場を辞職し、この屋敷に駆けつけたのだとか。
「先を越されないうちにと、かなり焦りました」
アスラは豪快に笑い、エドワードの背をバシバシと叩いた。
「ルコットちゃんに焦がれるなんて、君はなかなか見る目があるじゃないか!」
ホルガーは僅かに肩を揺らすと、誤魔化すように紅茶を一気飲みする。
執事は静かにそのカップを満たした。
「どうかされましたか?」
ルコットが心配げにホルガーを覗き込む。
対するホルガーは、「いいえ、何でもありません」と視線を逸らした。
マシューが義弟を気遣うように「ホルガーくん、このヌガー、美味しいよ」と声をかける。
アスラはこっそりルコットに耳打ちした。
「あいつ、気が気じゃないのさ」
「え?」
きょとんとしていると、ヘレンが「本当に鈍いんだから」と苦笑する。
「ハームズワース家といえば、一大名家でしょう?いわゆる優良物件じゃない」
ルコットはフロランタンを飲み込むと、首をかしげる。
「優良物件……」
「そうよ。美男子で、頭が良くて、要領もいい。家出中だけどお金もある。普通、世の女性たちは放っておかないでしょう?」
「えぇ、そうでしょうね……?」
ばあやは両手を上げて小さく首を振った。
ルコットの目には結局、どんな「優良物件」も映り込まないのだろう。
「愚弟は何を不安に思うことがあるんだろうね。ここまで想われていながら」
アスラの呟きに、ヘレンが苦笑した。
「……まぁ、それに関しては、ルコットにも責任があるというか……ちょっとした行き違いがあるというか」
――私は、ホルガーさまの妻でいられる自信がないんです。
あれから、二人の間にその手の話題は出ていない。
しかし、あんな言葉を聞いて、不安に思わない夫はいないだろう。
「確かめればいいじゃないか。『どういう意味だったんですか?』と」
「……タイミングが掴めないのかもしれませんわ」
「まったく、ヘタレめ」
こそこそと話しをするアスラとヘレン。
そのとき、隣室で薬を煎じていたフュナが入室してきた。
唐草模様の繊細な刺繍の入った袴が、彼女の雰囲気にとてもよく合っている。
しかし、そのふんわりとした服装とは対照的に、彼女の表情は固い。
手元の盆には数種類のすり鉢が載っていた。
「ルコットさま、薬ができましたわ。さぁ、傷を見せてください」
男性陣を追い立て、扉を閉めると、フュナは傷口を一つひとつ検分した。
どこも消毒され清潔に保たれていたためか、小さな傷は塞がりかけていたが、一部熱を持っているところもあった。
特に胸元の傷は、周囲が赤く腫れてしまっている。
「まぁ、ルコットさま、これは痛かったでしょう」
覗き込んだヘレンとばあや、アスラまでもが、はっと息を飲んだ。
「ルコットちゃん、君、こんな状態で……」
「いえ、昨日までそれほどひどくはなかったのです。それに、痛みはあまりなくて……」
四人は、眉をひそめて黙り込んだ。
とりあえず、今は治療が先決だ。
「まず、大きな傷口の殺菌と、体内に入った菌を抑えます。流水と軟膏、あとは飲み薬です」
全身点検して、洗い流し、軟膏を塗ったガーゼで蓋をした。日に一度替えるようにと注意して、煎じ薬を飲ませる。こちらは一日三回だ。
「ルコットさま、赤くなっているということは、細菌が入り込んでいるということです。この赤みがもっと広がっていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれません。今だって、とても危ない状態です」
そのとき、廊下の扉が、ばんっと勢いよく開かれた。
一同は一斉に振り向く。
そこには、強張った表情のホルガーが立っていた。
衝立のかげに裸同然のルコットがいるというのに、その顔は赤らむどころか蒼白だった。
言葉も見つからないのか、茫然とフュナの方を見つめている。
フュナもまた、静かにホルガーを見返した。
「……フュナ姫、本当なのですか。殿下の傷はそこまで悪かったのですか」
誰もが返事を躊躇うような、生気のない声色だった。
しかしフュナは、それに答えるのが薬草学を嗜む者の義務であると知っていた。
「はい。 今処方したものも、最も強い殺菌薬です。副作用も懸念されますから、どうかしばらくは安静に。私は容態をマシュー殿にお伝えしてきます」
フュナが退室するのと同時に、アスラとヘレン、ばあやも廊下へ出て行った。
衝立越しに、ホルガーとルコットは二人きりで向かい合う。
互いに姿は見えなかったが、気配は確かに感じられた。
「……殿下」
ルコットの胸はぎゅっと締め付けられた。
(……そんな声で呼ばないでください)
込み上げてくるものを抑え込み、「はい」と返事をする。
しばらくの間ののち、ホルガーはまた口を開いた。
「……俺は、感染症が恐ろしいことくらい、知っていたはずなのです。いえ、軍人なら誰だって知っています。どんな小さな傷も侮ってはならないと」
それからまた、暫し沈黙が落ちる。
ルコットは脈打つ鼓動を押さえてその場に立ち尽くした。
「……それなのに、俺はあろうことか、一番大切な人の傷を侮ってしまった。直接傷口を確かめもせずに、軍の支給品の傷薬とガーゼを渡し、安心しきっていた。専門家を呼ぶのも二の次に…」
ルコットは眉を下げてゆるゆると首を振った。
「違います、ホルガーさま。私が大したことはないと申し上げたのです。治療は登城後にしたいとお願いしたのも私です」
ホルガーは、唇を引き結ぶと、床をきつく睨んだ。
力を込められた拳がぐっと音を立てた。
「それでも、俺は気づかなければなりませんでした」
否、気づきたかった。
我慢強く控えめな彼女の性格も知っていた。
ルコットやヘレンに、刃物傷の知識がないことくらい明白だったのに。
「今だって、俺は、何をして差し上げることもできません」
ルコットは、困ったように、そしてどこか諦めたように笑った。
「仕方ありませんわ。だって、ホルガーさまに私の肌をお見せするわけにはいきませんもの」
王家と陸軍を結びつけるための形ばかりの婚姻。
そこで選ばれたのが、たまたま自分だっただけ。
いずれ後継ぎをと望まれることもあるかもしれない。離縁されないのなら、それこそ正妻の役割でもある。
しかし今はまだそれさえ躊躇われているのだから。
(……お目汚しになるとわかっていながら、傷を見ていただくわけにはまいりませんもの)
ホルガーは側頭部をガンと打たれたような衝撃に襲われた。




