第五十六話 エドワードの初恋
「この部屋を使ってください」
ルコットが扉を開くと、エドワードは切れ長の瞳を大きく見開いた。
換気のために開けられていた窓から、ざぁっと風が入る。
そこは、中庭に面した東向きの部屋だった。
濃茶を基調としたシンプルな家具に、白い壁紙、ベージュに細かな金模様の入ったカーテン。
窓際の机に、明るい朝日が差していた。
「……この部屋、ですか」
初めて目にした部屋なのに、そこは妙に居心地のいい一室だった。
簡素ながら、趣味が良い。
「……一日で、ここまで用意してくださったんですか」
エドワードが視線を投げかけると、ルコットは何でもないことのように笑った。
「家具は元々備え付けなので、大したことはしてないですよ」
そんなはずはない。
皺一つなく伸ばされたシーツに、本棚に置かれた様々なジャンルの本、筆記具や紙、果ては衣服に至るまで、必要であろうものが全てそこには用意されていたのだから。
「服はホルガーさまのものなので、少し大きいかもしれません。使わなければ片付けますから仰ってください」
無表情の美青年は、どこか気まずげに目を伏せた。
* * *
エドワードが、初めてルコットを目にしたのは、十年以上も前のことだった。
王宮内での夜会。何の夜会だったかは忘れてしまった。
ダンスの合間、幼い肩にぶつかってしまったとき、彼女はエドワードが謝るより先にこう言ったのだ。
「まぁ、申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
自分より五つも年上の男に肩をぶつけられて、なお純粋に相手を心配するとは。
結局そのとき、エドワードはまともに返事をすることもできなかった。
「はい……お嬢さん」
「そうですか、良かったですわ」
安心したように微笑むと、彼女は引き止める間も無くふわふわと去ってしまった。
その後ろ姿を見つめ呟く。
「彼女は、何者だ」
友人たちは訝しげに答えてくれた。
「二十番目の末姫、ルコット殿下だよ」
その嘲るような響きに、胸の奥でちり、と小さな怒りが火花を散らした。
結局、それから彼女に会うことはなかった。
せいぜい式典で姿を探してしまうくらいのもので、その元気な姿を見ると何故か安心するのだった。
だから、彼女が結婚すると聞いたとき、エドワードはどういう顔をすれば良いか分からなかった。
(相手があの冥府の悪魔とは……それも、王命で)
呆然とその場に立ち尽くした。
同情とも憐憫とも違う。
あったのは微かな嫉妬心と、戸惑いだった。
(……彼女は、この婚姻を望んでいるのだろうか)
そうであれば良い。それなら彼女は幸せになれる。
そんな願いと同時に、心の中の正直な部分はこう叫んでいた。
――彼女が私を望んでくれれば良いのに。
そうなってみて、初めて気づいた。
自分は、十年前のあの日、恋に落ちていたのだと。
* * *
王へ嘆願しようかとも迷った。
恥も外聞もなく、彼女へ求婚しようかとも。
それをしなかったのは、ひとえにあの優しい姫に醜聞を立てたくなかったからだ。
黒々としたとぐろの渦巻く胸の内をひた隠し、エドワードはおぼつかない日々を過ごした。
そして迎えた婚礼の日。
結局前夜は一睡もできなかった。
それでも、表面上はいつも通りの能面をつけて、式に臨む。
深く深呼吸して、今一度自分に問いかけた。
(本当に、彼女を諦めることができるのか?)
否。否、だ。
あんな女性は他にいない。
いや、似ている誰かでは駄目なのだ。
彼女でなくては。
体中がかつてない熱に包まれていくのが分かった。
もはや、他に道はない。
(奪おう。この式で。彼女が入場してきたら)
エドワードはゆっくりと美しい瞳を開けた。
そのとき、オルガンの音と清廉な歌声が、秋の陽の差す聖堂に響き渡った。
ゆっくりと重厚な扉が開かれる。
エドワードは、そこに立つルコットの姿に釘付けになった。
純白の豊かに膨らんだドレス。
滑らかな生地、繊細なレース、そして、銀と花々に彩られた優しい茶色の艶やかな髪。
十年前から変わらぬ面差しに、透明な瞳。
しかし、その顔は哀れなほどに青ざめていた。
(……助けなければ)
彼女を、この結婚から。
思わずエドワードが一歩踏み出しかけたそのとき、彼女の瞳が壇上を捉えた。
すると、その頬にみるみる赤みが差していき、口元に微笑が浮かぶ。
ほんの僅かな変化だったが、十年間ルコットを見つめ続けたエドワードには痛いほどに分かってしまった。
両足がその場に縫い付けられたかのように動かない。
もはや、彼らの邪魔をする気にはなれなかった。
* * *
抜け殻のように日々を過ごし、いつにも増して奔放な毎日を送った。
とはいえ、元々放蕩息子だったためか、今更咎められることもなかった。
暇乞いの儀も、欠席しようと思っていた。
それでも、何故か足が式場へ向いたのは、彼女の晴れ姿を見逃したくなかったから。
式半ばで聖堂へ赴いたエドワードは、扉の前に佇む人物に唖然とした。
そこには、陸軍大将ホルガー=ベルツが跪いていた。
まるで、神に祈るかのように。
訝しく思いながらもその横をすり抜け、裏手の小さな通用口から堂内に滑り込む。
(彼はあんなところで一体何を祈っていたのだろう)
その問いに対する答えは、堂内に入ってすぐ目に飛び込んできた。
奮戦する陸軍、魔導師団員、危険に晒されながらなお、背筋を伸ばし式を続ける王と司祭――そしてルコット。
体がピクリとも動かない。それどころか、視線一つ動かすことができなかった。
まるで現実味のない光景。
場面が切り取られた紙芝居でも見ているかのようだった。
脳裏に、先ほどの男の姿がよぎった。
(冥府の悪魔は、外で何をしているんだ。何故彼女を助けない!)
そのとき、聖堂の鐘が鳴り、彼女が堂外へ走り始めた。
とっさに足を踏み出し、扉前へ駆ける。
エドワードが駆けつけたとき、ちょうどホルガーが両手を大きく広げたところだった。
勢い余ったルコットがその腕に飛び込む。
ホルガーは先ほどまでの張り詰めた表情が嘘のように、優しく微笑んだ。
「殿下、お待ちしていました」
「…信じてくださって、ありがとうございます」
その瞬間、否が応でも納得させられてしまった。
祝福せざるを得なかった。
彼女には、彼しかいないのだ。
(あんな見守り方は、私にはできない)
すぐにでも駆けつけたい気持ちを押さえつけ、両手を血が滲むほど握りしめながら、それでもその場から一歩も動かず静かに祈り続けるなんて。
(……それも全て、彼女のために)
完敗だった。
見事なまでに。
あんな愛はきっと、他にない。
エドワードは、そっとその場を離れ、花降る広場を歩いた。
願はくば、彼らの幸せが永遠に守られますよう。
「レインヴェール伯夫人に、祝福を。レインヴェール伯に、最上の敬意を」
どうかあの優しい花嫁と花婿に、幸多き生涯を。




