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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第三章 新しい日々
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第五十六話 エドワードの初恋


「この部屋を使ってください」


 ルコットが扉を開くと、エドワードは切れ長の瞳を大きく見開いた。

 換気のために開けられていた窓から、ざぁっと風が入る。

 そこは、中庭に面した東向きの部屋だった。


 濃茶を基調としたシンプルな家具に、白い壁紙、ベージュに細かな金模様の入ったカーテン。

 窓際の机に、明るい朝日が差していた。


「……この部屋、ですか」


 初めて目にした部屋なのに、そこは妙に居心地のいい一室だった。

 簡素ながら、趣味が良い。

 

「……一日で、ここまで用意してくださったんですか」


 エドワードが視線を投げかけると、ルコットは何でもないことのように笑った。


「家具は元々備え付けなので、大したことはしてないですよ」


 そんなはずはない。

 皺一つなく伸ばされたシーツに、本棚に置かれた様々なジャンルの本、筆記具や紙、果ては衣服に至るまで、必要であろうものが全てそこには用意されていたのだから。

 

「服はホルガーさまのものなので、少し大きいかもしれません。使わなければ片付けますから仰ってください」


 無表情の美青年は、どこか気まずげに目を伏せた。



* * *



 エドワードが、初めてルコットを目にしたのは、十年以上も前のことだった。

 王宮内での夜会。何の夜会だったかは忘れてしまった。

 ダンスの合間、幼い肩にぶつかってしまったとき、彼女はエドワードが謝るより先にこう言ったのだ。


「まぁ、申し訳ありません。お怪我はありませんか?」


 自分より五つも年上の男に肩をぶつけられて、なお純粋に相手を心配するとは。

 結局そのとき、エドワードはまともに返事をすることもできなかった。


「はい……お嬢さん(レディ)

「そうですか、良かったですわ」


 安心したように微笑むと、彼女は引き止める間も無くふわふわと去ってしまった。

 その後ろ姿を見つめ呟く。


「彼女は、何者だ」


 友人たちは訝しげに答えてくれた。


「二十番目の末姫、ルコット殿下だよ」


 その嘲るような響きに、胸の奥でちり、と小さな怒りが火花を散らした。

 

 結局、それから彼女に会うことはなかった。

 せいぜい式典で姿を探してしまうくらいのもので、その元気な姿を見ると何故か安心するのだった。


 だから、彼女が結婚すると聞いたとき、エドワードはどういう顔をすれば良いか分からなかった。


(相手があの冥府の悪魔とは……それも、王命で)


 呆然とその場に立ち尽くした。

 同情とも憐憫とも違う。

 あったのは微かな嫉妬心と、戸惑いだった。


(……彼女は、この婚姻を望んでいるのだろうか)


 そうであれば良い。それなら彼女は幸せになれる。

 そんな願いと同時に、心の中の正直な部分はこう叫んでいた。


――彼女が私を望んでくれれば良いのに。


 そうなってみて、初めて気づいた。

 自分は、十年前のあの日、恋に落ちていたのだと。



* * *



 王へ嘆願しようかとも迷った。

 恥も外聞もなく、彼女へ求婚しようかとも。

 それをしなかったのは、ひとえにあの優しい姫に醜聞を立てたくなかったからだ。


 黒々としたとぐろの渦巻く胸の内をひた隠し、エドワードはおぼつかない日々を過ごした。

 そして迎えた婚礼の日。

 結局前夜は一睡もできなかった。

 それでも、表面上はいつも通りの能面をつけて、式に臨む。


 深く深呼吸して、今一度自分に問いかけた。

 

(本当に、彼女を諦めることができるのか?)


 否。否、だ。

 あんな女性は他にいない。

 いや、似ている誰かでは駄目なのだ。

 彼女でなくては。

 体中がかつてない熱に包まれていくのが分かった。

 もはや、他に道はない。


(奪おう。この式で。彼女が入場してきたら)

 

 エドワードはゆっくりと美しい瞳を開けた。


 そのとき、オルガンの音と清廉な歌声が、秋の陽の差す聖堂に響き渡った。

 ゆっくりと重厚な扉が開かれる。

 エドワードは、そこに立つルコットの姿に釘付けになった。


 純白の豊かに膨らんだドレス。

 滑らかな生地、繊細なレース、そして、銀と花々に彩られた優しい茶色の艶やかな髪。

 十年前から変わらぬ面差しに、透明な瞳。


 しかし、その顔は哀れなほどに青ざめていた。


(……助けなければ)


 彼女を、この結婚から。

 思わずエドワードが一歩踏み出しかけたそのとき、彼女の瞳が壇上を捉えた。

 すると、その頬にみるみる赤みが差していき、口元に微笑が浮かぶ。

 ほんの僅かな変化だったが、十年間ルコットを見つめ続けたエドワードには痛いほどに分かってしまった。


 両足がその場に縫い付けられたかのように動かない。

 もはや、彼らの邪魔をする気にはなれなかった。

 


* * *



 抜け殻のように日々を過ごし、いつにも増して奔放な毎日を送った。

 とはいえ、元々放蕩息子だったためか、今更咎められることもなかった。


 暇乞いの儀も、欠席しようと思っていた。

 それでも、何故か足が式場へ向いたのは、彼女の晴れ姿を見逃したくなかったから。

 式半ばで聖堂へ赴いたエドワードは、扉の前に佇む人物に唖然とした。


 そこには、陸軍大将ホルガー=ベルツが跪いていた。

 まるで、神に祈るかのように。


 訝しく思いながらもその横をすり抜け、裏手の小さな通用口から堂内に滑り込む。


(彼はあんなところで一体何を祈っていたのだろう)


 その問いに対する答えは、堂内に入ってすぐ目に飛び込んできた。

 奮戦する陸軍、魔導師団員、危険に晒されながらなお、背筋を伸ばし式を続ける王と司祭――そしてルコット。


 体がピクリとも動かない。それどころか、視線一つ動かすことができなかった。

 まるで現実味のない光景。

 場面が切り取られた紙芝居でも見ているかのようだった。

 脳裏に、先ほどの男の姿がよぎった。


冥府の悪魔(あいつ)は、外で何をしているんだ。何故彼女を助けない!)


 そのとき、聖堂の鐘が鳴り、彼女が堂外へ走り始めた。

 とっさに足を踏み出し、扉前へ駆ける。


 エドワードが駆けつけたとき、ちょうどホルガーが両手を大きく広げたところだった。

 勢い余ったルコットがその腕に飛び込む。

 ホルガーは先ほどまでの張り詰めた表情が嘘のように、優しく微笑んだ。


「殿下、お待ちしていました」

「…信じてくださって、ありがとうございます」


 その瞬間、否が応でも納得させられてしまった。

 祝福せざるを得なかった。

 彼女には、彼しかいないのだ。


(あんな見守り方は、私にはできない)


 すぐにでも駆けつけたい気持ちを押さえつけ、両手を血が滲むほど握りしめながら、それでもその場から一歩も動かず静かに祈り続けるなんて。


(……それも全て、彼女のために)


 完敗だった。

 見事なまでに。

 あんな愛はきっと、他にない。


 エドワードは、そっとその場を離れ、花降る広場を歩いた。

 願はくば、彼らの幸せが永遠に守られますよう。


「レインヴェール伯夫人に、祝福を。レインヴェール伯に、最上の敬意を」


 どうかあの優しい花嫁と花婿に、幸多き生涯を。





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