第五十話 雪の都アルシラ
「……アルシラは、美しい土地ですわ」
――この国は、美しい。
スノウお姉さまのお言葉が染み入るようでした。
テスラで出会った親切な人々。
優しいノヴィレアさま。
未来を想うロベルトさんとローラさん。
この国はきっと、無慈悲な軍事大国なんかじゃない。
もっともっと、多くの優しさと輝きに満ちている。
私はそう、確信しました。
「……アルシラに、来てよかった」
最初の旅がアルシラで、本当によかった。
「ホルガーさま、ありがとうございます」
私を連れて来てくれて。
この目にたくさんのものを映す機会を与えてくれて。
ホルガーさまは、静かに目を見開かれると、眉を下げて笑われました。
「殿下がいらっしゃったから、ヘレン嬢を見つけ出すことができたんです。ノヴィレア神と領民の誤解も解けました。……俺にとっても、大切な思い出になりました」
茫然とホルガーさまを見つめます。
降るような煌めきに包まれた世界。
彼の瞳に映る私は、かつてない胸の高鳴りに戸惑い揺れていました。
ホルガーさまの真摯で慈愛に満ちた眼差し、微かに染まった頬。
全てを忘れ、見つめていると、ホルガーさまが、私の方へそっと手を差し出してくださいました。
あの日は取れなかった彼の手――私はゆっくりと、震える手を動かします。
そのとき、ホルガーさまの軍服のポケットが、澄んだ紫色の光を放ちました。
――奥さま……!
「え……!?」
響いたばあやの声に、意識が一気に覚醒します。
(一体、どこから?)
この場を見られていたのでしょうか。
気恥ずかしさから、さっと手を引っ込め、ホルガーさまに視線を投げかけました。
皆さまも、「どうした!?」とこちらへやって来られます。案外近くにいらっしゃったことに、頬が熱くなりました。
「通信魔水晶ですね」
ホルガーさまはポケットから水晶を取り出して、一振りされました。
すると、ばあやの顔がぱっと映し出されます。
その表情はひどく切迫していました。
「あぁホルガー殿!奥さま!早くお帰りください……!もう私ではどうにもなりません……!」
常になく取り乱したばあやの様子に、私もホルガーさまも思わず立ち上がります。
「ばあや殿ご安心を!すぐに俺だけでも転移して…」
「転移」という言葉を聞いて、ばあやが慌てて両手を振りました。
「いえホルガー殿、身に危険が迫っているわけではなく……ただ、直接ご判断を仰ぎたい案件があるといいますか……」
歯切れの悪いばあやは、「あぁ頭がいたい」とこめかみを押さえました。
私は「どうしましょう」とホルガーさまを見上げました。
明日以降もベータさま、ブランドンさまとの予定があったのですが、ばあやが気がかりで気もそぞろになってしまいそうです。
ホルガーさまは一瞬たりとも迷われませんでした。
「ばあや殿、すぐに帰ります。今夜ここを発ち、途中寄るべきところがあるので、明々後日の朝には着くかと思いますが、大丈夫そうですか?」
ベータさまとブランドンさまも、「早く帰り支度を始めねば」と広げたものを片付け始められています。
私と同じくらいばあやも驚いているようでした。
「そんな、十分ですよ。本当に、お邪魔をしてしまって申し訳ありません」
「ばあや殿、邪魔などとんでもありません」
ホルガーさまは、「何かあればまたすぐに呼んでください」と約束されて、通信を切られました。
「さぁ、殿下、帰りましょう」
差し出されたその手を、今度はしっかりと握りました。
ホルガーさまの迷いないお言葉に、私は涙が滲みそうでした。
恐らくは無意識に、他の何よりもばあやを優先してくださったのです。
私の大切な人を、同じように大切に思ってくださっているのです。
「はい、ホルガーさま」
ベータさまとブランドンさまは「寂しい」とは仰いながらも、「再会が楽しみじゃ」と笑ってくださいました。
「次会うときには子どもがいるかの」
「気が早いです!」
お二人の手を払いのけられたホルガーさまと、ぱちりと目が合ったので、曖昧に笑い返します。
すると、すぐに逸らされてしまいました。
「何じゃつれない夫じゃな」
「ルコットちゃん、寂しくなったらうちに養子に来るといい」
「駄目だと言っているでしょう!」
私は、ホルガーさまに遠ざけられそうになりながら、お二人と最後の挨拶を交わしました。
「どうか、お元気で」
「ルコットちゃんもな」
「あの唐変木をよろしく頼む。無茶ばかりする奴じゃからな」
何だかんだで、お二人ともホルガーさまのことを心配されているのだと伝わってきました。
「できる限り、お支えいたします。いえ、必ずお守りしてみせます。……私にとっても大切な方なのです」
その瞬間、ホルガーさまがぱっと手を離されて、「アサト!ヘレン嬢!出発だ!」と駆けて行かれました。
無力な私の言葉は、やはり滑稽に響いてしまったのかもしれません。
二十番目の末姫が、冥府の悪魔を守るだなんて。
(それでも、この気持ちは私の真実だもの)
私はなるべく胸を張って、お二人に一礼しました。
お二人は、驚いたように目を瞬かれたのち、力強く笑い返してくださいました。
「……とても、とても心強い」
最敬礼。
陸軍大将であるお二人の取られた礼。
私は、たじろぎそうになる心を叱咤して、もう一度頭を下げました。
* * *
馬車でシュトラの街を抜けていると、窓の外にちらちらと舞う白い雪が見えました。
「……初雪だわ」
ヘレンさんの言葉には、驚きとどこか嬉しそうな響きがありました。
「ノヴィレアさまでしょうか」
「きっと、そう」
馬上のホルガーさまも空を見上げられています。
アサトさまも御者台で驚かれていることでしょう。
どこかの家から、微かに聞こえてくる子守唄に、私は両目を閉じました。
――踊りましょう
きらきらと凍った湖の上で
細い月がわたしたちを見てる
ここは雪の都アルシラ




