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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第一章 婚礼編
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第五話 噴水広場


 平日の城下を並んで歩きながら、ホルガーは、とりあえず「昼はもう食べましたか?」と尋ねた。

 するとルコットは大きなかごを掲げて「ここに入っています」と笑った。


「すみません、こんなことになるとは思っていなくて」

「謝らないでください。城下を歩くなんて、滅多にないのでとてもわくわくしているんです」


 一目でそれが本心からの言葉だと分かったので、ホルガーも安心して歩みを進めることができる。


「良かったです。もうじき噴水広場なので、そこで昼にしますか」

「そうしましょう!もうお腹がぺこぺこで…」


 雑踏の中でも、彼女の弾んだ柔らかい声は、すんなりと耳に入ってきた。

 それを自覚すると途端に顔が熱くなりそうで、わざと視線を外して、さりげなく辺りを警戒するふりをした。


 この中央街道は、文字通り、城下を両断して王城へと通じる大通りだ。

 とは言え、軒並み並ぶのは、特に見るべきものもない武具、防具屋ばかりである。

 偶然この区画に武器屋が密集しているというわけではない。

 この国は、どこを切り取ってもおおよそ同じようなものだった。


 フレイローズには、観光客を楽しませようという概念がない。

 四方を他国に囲まれたこの国は、防衛費、軍事費に予算の半分近くをつぎ込むことで、その存在を維持し続けてきた。


 国土も豊かな方ではある。

 しかし、軍に人手が割かれるために、農業、畜産業、養殖業は二の次だった。

 国民が飢え死にしないだけの食料は生産されている。

 しかし、堅実な国民性も手伝い、余ったものは蓄えに回されるため、その生活ぶりは極めて質素なものだった。


 一方、防衛、進軍に力を入れてきた結果として、多くの技術者が生まれた。

 何代にも渡り武具を作り続けてきた家、防具を改良し続けてきた家が、この国にはごまんとあった。

 もはや、その技術こそがこの国の経済を支えていると言っても過言ではない。


 そして、その軍事大国の王家は、自国は勿論、他国の民にまで畏怖の念を持って崇められていた。

 元よりこの国は、戦の女神サーリにより世に平安をもたらすために建国され、今なおその庇護下にあると言い伝えられている。

 そして、王家はその女神サーリの血を引く存在であると考えられていた。

 故に、王家の人々は、人前で滅多に微笑むことはない。

 その毅然とした表情と堂々とした態度、そして何より、その神々しいまでの美貌は、建国神話の信憑性を高めて余りあった。

 ただ一人、末姫ルコットを除いては。


 国民は、まるで鞠のような体をし、美人とは言い難い容顔を持つルコットに、ある種憐れみのような感情を抱いていた。

 何の後ろ盾もなく、美しい姉たちに囲まれ、申し訳無さそうに肩を縮める末姫の姿は、どうしようもなく滑稽で、痛々しかったのだ。


 王室の品位を損なうと考える者もいたが、困ったように笑う年若い王女に、辛辣な言葉を投げかけることのできる人非人は、そう多くはなかった。

 そして、彼女に注目するほどの価値があると考える者もまた、皆無だった。

 そのため、幸か不幸か、彼女の顔を正しく覚えている者もまた、ほとんどいなかったのである。


「殿下は」


 噴水の淵に腰を掛け、分厚いカツサンドをかじりながら、ホルガーはぽつりと口を開いた。


「これで宜しいのですか」


 同じくカツサンドをかじっていたルコットは、ぽかんと首をかしげる。


「これで?何がですか?」

「俺のところに嫁がれるのは、ご負担ではありませんか?」


 言ってから、ホルガーは後悔した。

 例えこの婚姻を望んでいなくとも、二十番目の末姫に拒否権はないのだ。

 それに、例え辛くとも、悲しくとも、彼女はきっと、相手にそれを伝えることはない。

 この質問には、何の意味もなかった。

 ただ、表面上だけでも否定してくれれば、自らの心が少しだけ軽くなる。

 身勝手で、独りよがりな質問だった。


「すみません。忘れてください」


 ルコットが答える前に、そう言って、水筒の水をあおる。

 口を開きかけたルコットは、どうしようかと逡巡したのち、ぎこちなく微笑んだ。


 それきり、二人の間に沈黙が続いた。

 行き交う馬車、鉄を打つ音、背後の噴水が流れ落ちる音。

 街はこれほどの音に溢れているのに、二人の耳には何の音も届かなかった。

 そのとき、ルコットが薄く口を開いた。


「……実は、今日、母の命日なんです」


 ホルガーは、はっとした。

 しんとした耳に、ルコットの声がやけにはっきりと聞こえた。


「…だから、今日、誘っていただけて、とてもほっとしたんです」


 相変わらずの穏やかな微笑み、凪いだ声だった。

 そこには、不平も不満も、悲しみさえ、感じられない。

 しかし、ほっとしたということは、少なくとも、寂しさや心細さは感じていたのだろうか。

 彼女は感情をあまり表に出さないのかもしれない。


「…お母上はいつ?」

「私がずっと幼い頃です」


 恐るおそる尋ねると、彼女はどこか嬉しそうに話し始めた。


「優しい母でした。いつも笑顔で。母は、私の目標なんです」


 彼女の口から語られる母の姿は、明るく、穏やかで、いつも楽しげだった。

 彼女の語り口のためかもしれない。

 にこにこと話すその表情は、どこまでも晴れやかで、そこには、死の影など微塵も感じられなかった。


 彼女は、きっと、母親似なのだろう。

 それならば、その微笑みは、もしかしたら母親譲りなのかもしれない。

 そう思うと、彼女の母親をどこか身近に感じた。


「…素敵な方だったんですね。殿下はきっと、お母上に似られたんでしょう」


 ほとんど無意識に溢れた呟きに、ルコットは微かに顔を赤くする。

 それは、彼女にとって、この世で最も嬉しい褒め言葉だった。


 それに気づかないまま、ホルガーは「そろそろ風が冷たくなってきました」と立ち上がる。

 ルコットも素直に従った。


 再び並び歩く二人の影が、長く長く伸びていた。


 その後、部下たちに詰め寄られたホルガーは、噴水広場デートを正直に白状し、結果として大ひんしゅくを買った。


「広場に夕方まで!?ありえないですよ!」

「あんな騒々しい広場に!」

「次はきちんとしてくださいよ!」

「俺が殿下なら蹴っ飛ばしてます」


 ホルガーは、「殿下が心の広い女性で良かった」と、改めて嘆息した。



* * *



「帰ったのね」


 すっかり暗くなった後宮の、自室へと続く石畳を早足で歩いていると、そう、サファイアさまの声が聞こえました。

 思わず振り返ると、お姉さまは暗闇の中に、静かに佇まれていました。

 仄暗い闇に、青い御髪と瞳がぼんやりと光っています。


 二番目の王女であるサファイアさまは、私とは違い多忙な方です。

 夕食時だというのに、何故このようなところにいらっしゃるのでしょう。


「はい、ただいま戻りました。お姉さまはどうしてこちらに?」

「…あなたを待っていたのよ」

「えっ、私を?」


 このご様子だと、私が今日レインヴェール伯と外出していたこともご存知のようです。

 帰りが遅くて心配させてしまったのでしょうか。


「すみません、お待たせしてしまって…お体は冷えていませんか?ここは寒いので、よろしければ私の部屋に」

「…何へらへら笑ってるのよ」


 鋭く響いた声が、辺りの空気を揺らしました。

 冗談などではない、本気の怒りが、その声からも、真っ直ぐに据えられた瞳からも伝わってきます。


 あまりの様子に、私は口を開くことができませんでした。

 それでも、何とか返事をしようと言葉を探していると、お姉さまに肩を掴まれました。


「まだ笑うの?私は怒っているのよ!ふざけているの!?」


 笑っているつもりも、ふざけているつもりも、ありませんでした。

 ただ、いつもの顔の他に、一体どんな顔をすればいいのか、私には分からなかったのです。


「何故怒らないの!何故悲しまないの!何故恨まないの!」


 お姉さまの言葉に、私はただ息を飲むことしかできません。


「スノウ姉さまがあなたを利用していることくらい、気づいているでしょう!嫌なら嫌って言いなさいよ!言わないと、誰も助けてなんてくれないのよ!助けられないのよ!」


 お姉さまがこれほど取り乱しているところを、私はこのとき初めて目にしました。

 何故、私の肩を掴む手が震えているのでしょう。

 何故、深い海のような瞳に涙がたまっているでしょう。


「…サファイア姉さまは、私のことを、心配してくださっているのですか?」


 思いのほか、細い声が出ました。

 嬉しいという気持ちよりも先に、困惑が膨れ上がって、その気持ちをどこに落ち着ければいいのか分かりません。

 声だけではなく、瞳まで揺れているのが、自分でも分かりました。


「…あなたは、傷つけられても、その傷に全く執着しないから、見ていられないのよ。あなたの母親もそうだった。自分の子でもない私たちにまで笑いかけて、世話を焼いて。自分は、私たちの母に軽んじられているのに。……本当に、馬鹿みたいじゃない」


 静かな嗚咽が夜の闇に溶け出して、澄んだ空気がとても物寂しく感じられます。


 お姉さまはきっと、母のことを、私以上に覚えているのでしょう。

 私にとっては頼りない朧げな記憶でも、お姉さまにとっては、はっきりとした過去の出来事なのです。

 そしてその記憶が、今でもお姉さまを傷つけているように思えてなりませんでした。


 母はきっと、そんなこと、望んでいないのに。

 胸に灯った蝋燭の火のような記憶の中で、母がいつものように微笑みました。


「…私は、お姉さまのお役に立てることが嬉しいのです」


 母が幸せだったとは、やはり私にも思えません。

 それでも、母はいつも笑顔でした。

 そして私は、その母の笑顔に、確かに救われていたのです。


「他国に嫁ぐにしても、自国で降嫁するにしても、私ではきっと何の役にも立たなかったはずです。だから、私は、お姉さまに、このようなお役目を与えていただけたことが、嬉しかったのです。私でも、お姉さまのお役に立てるなんて、思ってもみなかったのです」


 サファイアお姉さまは、呆然と私を見つめていました。


「私がどうしたいのかは、私にもはっきりとは分かりません。でも、私は、お姉さまが任せてくださった私の任を、果たせればいいなと思っています」


 とはいえ、私に何ができるのか、まだそれさえ分かっていないのです。

 そう言って笑うと、お姉さまは、つられたように呆れた顔をされて、少しだけ微笑まれました。


「…そう。本当に、親子揃って本物のお人好しなのね」


 そうではないと否定したかったのに、どう言えばいいのかも分からず、結局私はまた曖昧に笑いました。


 結婚。

 その言葉は今でも何だか水に浮いた油のように、心の表面を上滑りしてしまいます。

 ですが、レインヴェール伯のそばで、広い世界を知っていくことを思うと、不安と同じくらい、大きな期待が膨らんでくるのです。


 彼の目指しているものを、そして、お姉さまの目指されているこの国の未来を、私もこの目に映したかったのかもしれません。



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