第四十二話 女神の愛
「…王女さま!」
湖上をゆっくりと歩いてくるルコットに、ノヴィレアは唖然としていた。
「愚かだ、愚かだとは思っていたが…」
あれほど痛めつけたのに。
あれほど無駄だと思い知らせたのに。
「何故立ち上がる…何故また向かってくる…!」
ルコットは、しっかりとその場に立つと、ノヴィレアと向き合った。
女神の瞳に映るこわばった少女の顔。
それはひどく青ざめていたけれど、迷いやためらいは浮かんでいなかった。
「…私は、あなたを恐れていないからです」
ノヴィレアの赤い瞳が、じわじわと見開かれる。
「………何?」
「だってあなたはこんなにも、人の子を愛しているから」
澄んだ声が、女神の鼓膜を揺らす。
ノヴィレアは、瞬きも忘れて、傷だらけの無力な少女を凝視した。
「世迷いごとを……その傷を付けたのは妾だろう!愛しいものを、傷つけるものか!」
「愛しいからこそ!」
吹き渡る風が、ルコットの髪を舞い上げる。
そんな彼女から目を逸らすことができなかった。
「…きっと、愛しいからこそ、苦しいのです」
王宮で、変わりばえのない日々を送っていたあの頃。
安全で恵まれた毎日に、感情が揺さぶられることはなかった。
全てが変わったのは、彼に出会ってから。
こんな制御のきかない愛を知ってから。
「愛する人に裏切られれば、そんなの、悲しいに決まっています。誰だってそうです。でも、ノヴィレアさま」
震える女神の方へ、ルコットはそっと手を伸ばした。
「…誤解なんです。彼らはあなたを裏切っていません。皆もまた、あなたが大好きなんです」
ヘレンの歌っていた童謡を思い出す。
――女神さまは信じている
人の子の愛を
サフラ湖のお城で祈ってる
この世で最も尊く、美しいもの
あれは、アルシラの民の祈りの歌だ。
私たちの愛を、女神さまが信じてくださいますように。
そんなひたむきな願いの歌。
「ノヴィレアさま、あなたもまだ、民を愛しているのでしょう…?」
ルコットの問いに、ノヴィレアはきつく目を閉じた。
「……わかっていた」
瞳から、細い涙が伝い落ちる。
「彼らに悪気はなかったと。ただ、悲しかった。何故妾を信じてくれなかったのか。何故妾を恐れたのか。妾と過ごした幾星霜の年月を忘れてしまったのか、と」
涙がこぼれるにつれて、湖の王女の瞳が、毒々しい赤から澄んだ空色へと変わっていった。
「…妾は、今でも、この地が愛しい。冬の厳しさに負けず、次の春を信じる気高いアルシラの民を、愛している」
風が徐々に静まり、立ち込めていた雲が、薄くなっていく。
荒波を立てていた湖面は徐々に凪ぎ、鳴り響いていた雷は静まった。
「…帰りましょう、ノヴィレアさま。皆のところへ」
差し出されたルコットの手に、女神の白い指が重なった。
そのとき、青色の見えかけていた空に、再び、黒い雲が集まり始めた。
同時に、ゴロゴロと不穏な雷が鳴り始め、吹きすさぶ風が辺りの木々を揺らす。
「え…?」
「何だ…!?」
驚いたのはルコットだけではなかった。
女神ノヴィレアもまた、突如暗転した様子に戸惑っている。
(…女神さまの仕業ではない…では、一体何が…?)
ルコットが考えるまでもなく、諸悪の根源はすぐ眼前に姿を見せた。
空間を切り裂くように現れたソレは、赤い目を爛々と光らせ、ニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「…待っていた、このときを」
男神、ラマス。
言われずとも悟った。
この男が、かつて民を騙し、女神を陥れた悪神であると。
「今度こそ、私はお前を仕留めるぞ、ノヴィレア!!」
禍々しい角から、黒い炎が上がり、茫然としていたノヴィレアとルコットに襲いかかる。
ノヴィレアは、はっと我に帰るとルコットを抱え上げ、水の盾を作った。
はじき返される炎を見つめながら、ルコットは「どうしましょう…」と呟く。
のんきな呟きに、ノヴィレアは思わず肩の力が抜けそうになった。
「お前はどんな状況でもそうなのか…」
「『そう』とは?」
「…いい。あからさまに怯えられるとかえって鬱陶しいからな」
そう、ルコットは恐れていなかった。
何故ならもう、一人ではないから。
ここにはこの地を守る女神さまと、そして――
「殿下!ご無事ですか!」
長剣を抜いたホルガーが、眼前に転移してきた。
ルコットとノヴィレアを視界におさめ、ほっとしたように微笑む。
「…お言葉は、届いたのですね」
彼の言葉に、ルコットは泣き出しそうになりながら、必死で笑顔を作ってうなずいた。
ノヴィレアもまた、力強い笑みを浮かべる。
「皆には、世話をかけた。迷惑ついでにこの者の始末を手伝ってくれないか、『冥府の悪魔』殿」
「……女神さまに『悪魔』と呼ばれる日が来ようとは」
ホルガーは長剣を構え直すと、ラマスに向き合った。
「元よりそのつもりです。それに、ここにいるのは俺だけではありません」
「何?」
ホルガーの背後に、光が宿る。
その眩しい光は徐々に二柱の姿を成していった。
「…あの、方々は」
王宮に引きこもっていたルコットでも知っていた。
かつて戦火に飲まれたこの国を救い、数々の大戦を鬼のような強さでおさめた伝説の騎士――
「ブランドン大将、ベータ大将……」
大陸一の軍事大国フレイローズの大将三名が、一同に会した瞬間だった。




