第四十一話 もう一度、踏み出す勇気を
二神の戦いは苛烈を極めた。
「諦めよノヴィレア!平和ボケしたそなたに勝ち目はない!」
全てが、ラマスの黒い炎に飲み込まれた。
平和な湖の都は、なすすべもなく破壊されていった。
女神を助けようとした妖精、精霊は、羽虫のように捻り潰された。
「皆!早く逃げよ!逃げなさい!」
サフラ湖の王女は、叫びながら水を放ち続けた。
滂沱のごとく、涙を流しながら。
彼女は必死でラマスの侵攻を阻んでいたが、不意をつかれた女神は圧倒的に分が悪かった。
「そのまま灰になるがいい!憎き麗しの女神よ!」
何かがおかしいと、村人はようやく気づき始めた。
「ラマス神は何故、我らの土地を燃やすのだろう…」
「あの頭のツノ…まるで悪魔のようではないか…?」
「子神はどこへ…?」
「影も形もないではないか…」
誰もが、ラマスへの疑念を確信へと変えたそのとき、長衣を羽織った二人組が現れた。
「レンルート!」
「サラ!」
並び立つ二人は、赤黒く染まった空と、絶え間なく起こる竜巻と、焼けて割れた地面を、静かに見つめる。
「…奴は幻で皆を騙し、女神さまを陥れた邪神だ」
村人たちは涙を流し、顔を押さえた。
「あぁ、我々が愚かだった!」
「しかし今更どうすればいい!」
「女神さまはもはや正気ではない…!」
レンルートは「安心してほしい」と告げると、「飛翔」と呟いた。
二人がふわりと浮き上がる。
空中で、サラが振り返り、「あの子をよろしくお願いします」と頭を下げた。
その瞬間、皆は二人の心づもりを悟った。
「待て!」
「レンルート!サラ!死ぬな!」
「馬鹿な真似はよせ!」
レンルートは振り向くと、その場には不釣り合いなほど晴れやかに笑った。
「よそ者の僕たちを、受け入れてくれてありがとう。ここで暮らした毎日は、魔術師として生まれた僕にとって、唯一の幸いだった」
「皆さん、どうかお元気で」
二人には切札があった。
魔術師ではないサラの持つ、たったひとつの特性。
それは、レンルートの魔力との親和性の高さ。
彼女は何故かレンルートの魔力を取り込み、自分のもののように増幅させ、扱うことができた。
「…サラ、僕は君を幸せにできただろうか」
湖で戦う二神へ近づきながら、レンルートは問いかけた。
「僕は…あの日の誓いを、守れただろうか」
サラはにっこりと笑うと彼の手を取った。
「…えぇ、幸せよ。私、とても幸せ。何度生まれ変わってもまた、あなたとヘレンに会いたいわ」
「……ありがとう、サラ」
眼前に、二神が見える。
ラマスはもとより、女神ノヴィレアまでもが、瘴気にあてられ邪神へと堕ちかけていた。
「…僕一人では彼らを止められない」
「わかっているわ。だからこそ、私はここへ来たんだもの」
サラは、レンルートを勇気付けるように、その手をぎゅっと握った。
「…やりましょう、レン」
「…あぁ」
固く重ね合った手を、荒れ狂う神々へ向け、二人は静かに口を開いた。
「雪の祝福、春の息吹」
「白き地に住まう優しき星々よ」
「我らの願いは一つだけ」
「湖面のごとき祈りが悠久の時を経て輝くよう」
「すこやかな明日を」
「万感の感謝を込めて」
「我らが花吹雪へ、歌うような眠りを」
――氷解の刻、千年越しの春の息吹……!!
春の日差しのような光が、闇を切り裂き、黒い炎を飲み込んでいく。
「な、何だこの光は!!」
ラマスが気づいたときにはもう、遅かった。
闇に生きてきた彼に、希望の光は眩しすぎた。
「やめろ!やめろぉお!!」
清浄な光の中へ、その身はなすすべもなく吸い込まれ、あとには何も残らなかった。
* * *
ノヴィレアは沈んでいった。
深い、暗い、湖の底へ。
――浄化せねば、この美しい湖を。
指を振るうが、何の力も湧いてこない。
体中が抗いがたい倦怠感と睡魔に包まれていた。
――いけない、今眠るわけには…妾はまだ、戦える…!
レンルートとサラの体は金色の粉に包まれ、徐々に霞んでいく。
暗い湖の中で、きらきらと輝く流星のようだった。
「ノヴィレアさま、今のあなたさまは力を使い果たされてしまった」
「どうか、今はゆっくりとお休みください。いつか来る、目覚めの時まで」
二人は、女神ノヴィレアに想いを込めて祈りを捧げたが、もはや意識を失いかけた彼女には届かなかった。
――許さない、許さない、裏切り者。妾を陥れ、封じた民ども。この悲しみ、いつか必ず晴らしてみせる。
心のうちで念じながら、ぽろぽろと小さな涙をこぼし、ノヴィレアは闇の中へと消えていった。
* * *
「許さない…許さない…!!逃すか!小娘!」
黒い湖面の上。
ノヴィレアの叫びが、波紋のように響き渡る。
ルコットは、暴風に飛ばされないように踏ん張りながら、湖の方へ一歩踏み出した。
「逃げません!」
濁流の渦巻く湖。
そこへ勢いよく飛び込もうとした瞬間、ホルガーとヘレンが慌てて両腕を掴んだ。
「殿下!?」
「ちょっと!ルコットどこ行くのよ!」
「…ノヴィレアさまを、助けないと」
いつになく落ち着いたルコットの声に、ホルガーは息を飲む。
対するヘレンは、責めるように声を荒げた。
「こんな怪我をして!あれだけ心配をかけて!また湖に飛び込もうっていうの!?冗談じゃないわ!」
涙声のヘレンが、ルコットの決意を揺さぶった。
(確かに、私の声は王女さまには届きませんでした)
――お前に何がわかる!何不自由なく!何の苦労もなく!のうのうと生きてきたお前に!!
あの言葉は、今でもルコットの心につき刺さっている。
何の努力もしてこなかった、役立たずの末姫。
これまで感じてきた引け目を、真正面から突きつけられたかのようだった。
(…それでも)
ルコットは両手をきつく握りしめると、ぎゅっと両目を閉じる。
「それでも、私は行きます。だってあのとき、王女さまは仰ったんです。『待って』と」
黒い湖に一人置き去りにされた亡国の王女。
その孤独に、触れてしまった。
「こんなの悲しすぎます。誤解とすれ違いのために、あんなに苦しんで、誰かを恨み続けているなんて」
ルコットは、震える体で、しっかりと背筋を伸ばした。
「もう一度、行ってきます。今度は、彼女の心に届くように」
「…俺が一緒では、意味がないのですよね」
ホルガーは、泣き笑いのような表情で、ルコットの首にそっと腕を回した。
「…殿下、あなたはご自身で思われているよりずっとお強い」
ルコットが目を見開くと、ホルガーはポケットから緑色に光る石を取り出し、その手に握らせた。
「風の魔石です。これで体を浮かせて、湖の上を進んでください」
「…ありがとう、ございます」
何の力もない。
口が上手いわけでもなければ、魔術が使えるわけでもない。
(それなのに、いつだって、ホルガーさまは私を信じてくださる)
それが、どれほど嬉しいことか。
涙の浮かぶ目で、ルコットは微笑んだ。
「ホルガーさまがいるから、私はもっと強くなりたいと思うのです」
魔石を握りしめ、風を起こす。
ふわりと足が浮き、スカートがはためいた。
そのまま、踊るように湖へと踏み出す。
振り向くと、ヘレンを始め、乗組員にいたるまで、皆がルコットを見守っていた。
「…行ってまいります」
ノヴィレアの目が、湖上のルコットに、ひたと据えられた。




