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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第二章 北の大地 アルシラ
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第四十話 サフラ湖の女神 ノヴィレア


「ルコット!!」


 体の浮遊感が消えないうちに、私の首に勢いよく腕が回されました。

 荒れ狂う船の上、全身に水を滴らせたヘレンさんの、冷え切った体温と、絶え間ない嗚咽。

 その縋るような抱擁に、遠のきかけていた意識が、急速に回復していきました。


「ヘレンさん…今まで、ずっとここに…?」

「ばか…っ、ばかばか、ばか…!湖に飛び込むなんて…!」


 雨と涙で、彼女の顔はぐしゃぐしゃです。

 そのときになって初めて、船が、先ほどの位置から動いていないことに気づきました。

 周囲を見回すと、船員の方々が、安堵の表情を浮かべられています。

 

「良かったな、お嬢さん。助かって」

「君が湖に落ちたとき、その子が船室に駆け込んで来たんだよ。『船を止めなさい!』ってな」

「『助けに行く!』って言って聞かないのなんの。『せめて嵐が止むまでは待て』って抑えてたんだよ」


 ヘレンさんのすすり泣きが、胸に刺さります。

 残された彼女は、一体どんな思いで、この黒い湖を見つめ続けていたのでしょう。


「…ヘレンさん、私…」

「うるさい!ばか!向こう見ず…!どれだけお人好しなのよ…!」


 私は、ヘレンさんの背に手を回し、それから、ぎゅっと抱きしめました。

 

「…ごめんなさい、ヘレンさん」

「…許せないわ…腹が立って仕方ないの…私自身に…!私、どうすることもできなかった!何もできなかった!あなたが死ぬかもしれないっていうのに、ここで震えながら待ってることしかできなかった…!」

「そんなことはありません、ヘレン嬢」


 振り返ると、隣のホルガーさまが真剣な表情で頭を下げられました。


「あなたが管制室の魔術師と連携をとってくださらなければ、俺はここへ転移することはできませんでした」

「どういうことですか?」


 そういえば、ホルガーさまはどうやってあの場にいらしたのでしょう。

 

「魔導師団長のお力ですよ」

「ハントさまの?」

「はい。殿下の居場所を突き止めてくださり、俺をそこへ転移してくださいました」


 転移というのは確か最上級魔法のはずです。

 遠隔からそんなことが行えるものでしょうか。


「転移魔術は、異なる地点の魔力と魔力を結び、物質および肉体を移動させること。つまり、理論上は転移前と転移先に二人の魔術師がいれば可能なのです。幸いシュトラは大きな街ですから、転移施設がありました」

「でも、ここには転移施設はありませんわ」


 首をかしげる私に、ホルガーさまは穏やかに微笑まれました。


「師団長は規格外の方なので、心配には及びませんでした。遠隔から俺に魔力を飛ばし、この船の操縦士の元へ飛んで、そこから殿下の魔力を頼りに、湖の底へ飛ばしてくださったというわけです」

「…まぁ」

「…無茶苦茶だわ」


 ヘレンさんは涙を拭いて、呆れたようにため息をつかれます。


「しかもその人、私たちの頭に直接話しかけてきたのよ。『やぁ、突然だけど頼みたいことがあるんだ』って。通信魔水晶もないのに」


 確かに無茶苦茶だと、素人の私にも分かりました。

 そもそも、いくら魔術師の方の中継ありきでも、私の微かな魔力を目印に使うなんて、信じがたい話でした。

 

「…魔力量にしても精神力にしても、あんな離れ業、普通できないし、もし万が一できたとしても、命を燃やす覚悟が必要なくらいよ」

「そんな…」


 さすがに命を削るような無茶はされていないはずですが、大丈夫でしょうか。


「確か、ハントさまは病み上がりだったと思うのですが…」

「大丈夫ですよ。ピンピンしていましたから。……無駄口を叩けるくらいには」


 いつになく苦々しげなホルガーさまの表情が気にかかりましたが、どうやらハントさまはご無事のようです。


「良かったです。帰ったら、お礼に伺いますね」

「…そうですね、礼の一つくらいは言わねばならないでしょう」

「……あなたたち、突っ込みどころは満載なんだけど、まずは帰れるか、でしょう?」


 ヘレンさんが、胡乱うろんな目で渦巻く湖上を指されます。


「アレ、どうするのよ?」


 闇を煮詰めたような水面が、ぼこり、ぼこりと盛り上がり、鳴り響く雷が強くなっていきます。

 脳髄に響くような音、全身にビリビリと伝わる振動。

 その光景はまるで、この世の終わりのようでした。


 そのとき、盛り上がっていた湖面が、爆発にも似た勢いで突き破られました。

 水中から、ぎらぎらと瞳を燃やし、黒い水を滴らせ、王女さまが現れます。

 その目は、真っ直ぐにこちらに向けられていました。


「女神さま…ノヴィレアさまだ!」


 腰を抜かしたように倒れ込む方々。

 うずくまり、祈りを捧げる人々。

 船上は、混乱の渦に飲み込まれました。


「そんな…まさか本当に…ノヴィレアさまは父と母が封じたはず…」

「ヘレンさん、あの方がどなたかご存知なんですか!?」


 冷え切った顔を更に白くしたヘレンさんが、震える唇を開きます。


「…あの方は、サフラ湖の女神、ノヴィレアさま。十年以上前、私の両親が封じた方よ」



* * *



 アルシラには、固有の伝説が無数にあった。

 吹雪の精霊の話。

 雪原の主の話。

 春風の妖精の話。

 いずれも、寝物語に語り継がれ、この地に深く根付いたものである。

 しかし中でも、「サフラ湖の女神さま」を知らぬ領民はいなかった。


 かつて、草木の芽吹かぬ氷結の地であったこのアルシラに、暖かな春を連れて来た一人の女神がいた。

 名をノヴィレア。

 雪のように白い肌、金色の髪、春の空のような瞳。

 美しく、慈悲深い女神だった。


 吹雪で作物が育たない年は、民が飢えぬよう、野山の恵み、湖の魚を分け与えた。

 雪山で惑う民には、帰路を指し示した。

 そして、毎年必ず暖かな春を運んで来た。

 人々は彼女を愛し、彼女もまた、人々を、アルシラの地を愛していた。


 そのうち、次第に移り住んで来る民が増え、田畑が広げられ、村が町になり、町が都市へと変わっていった。

 人々は、昼も夜も働き、領外の者と商売を始め、小金を稼ぐ者も増えていった。

 アルシラの地は、着実に豊かになっていった。


 しかし、豊かさと引き換えに、人々は時間と余裕を失ってしまった。

 恵みに感謝をする間もなく、機械のように食事を繰り返し、慌ただしく早送りする日々。

 女神の存在を忘れることはなかったが、心地よい疲労感につられ、夜の祈りを疎かにする者さえいた。


 それでも、ノヴィレアは喜んだ。

 飢えることも、凍えることもなくなった民の、健やかな毎日を。

 そして役目を終えた彼女は、アルシラの象徴、サフラ湖の底へ身を落ち着けることにした。


 仲間を呼び、小さくも美しい城を建てた。

 家族とともに過ごす穏やかな日々。

 柔らかな日の差し込む、清らかな水の都。

 城下には続々と家が増えていった。

 昔馴染みの精霊や妖精が、年を経るごとに集まって来た。

 まれにアルシラの人々が、その美しい水の都を見に来ることさえあった。

 そんなときでもノヴィレアは、愛すべき見学者を受け入れ、夕刻には安全に地上へ返せるよう取り計らった。


 その平穏な幸せは、永遠に続いていくかのように思われた。


 ある日のこと、テスラという村に、一人の男神が現れた。

 彼は村人を集め、こう言った。


「私はラマス。ノヴィレアの夫だ。遠い昔に喧嘩別れをした妻と今一度仲直りをしたい。どうか湖の底から呼び寄せてくれないか」


 村人は訝しんだ。

 元よりテスラは、アルシラの中でも気候が厳しく、女神の恩恵を飛び抜けて享受していた。

 そのため、他より信仰の厚い土地でもあったのだ。


 村人を代表し、村長が反駁した。


「神に対して不遜なのは、百も承知で申し上げる。証拠がなければ我々は動けない。何故ならば、我らはいつもノヴィレアさまの味方であるからだ」


 男神は「道理」と頷くと、ぱちりと指を鳴らした。

 すると、一陣の風とともに、眩い少女が現れた。


「この子は私とノヴィレアの子どもだ」


 子神は儚げに微笑んだ。

 雪のように白い肌、金色の髪、春の空のような瞳、その慈悲深い微笑み。

 全てが彼女ノヴィレアのものであった。

 もはや誰も疑いを持つ者はいなかった。

 その子は、まさしく「ノヴィレアの娘」だった。


「…良かろう。ついて参れ」


 村長は一つ頷くと、村人とともに男を湖へと連れていった。


 その日も、変わらず穏やかな一日を送っていたノヴィレアは、湖の淵から聞こえてくる民の声にハッとした。


「ノヴィレアさま。夫君と子神さまをお連れいたしました」

「どうかこちらへおいでください」


 ゾクゾクと粟立つ背筋。おぞましい気配。

 ノヴィレアは思わず我を失って叫んだ。


「裏切り者どもめ!!何故そやつを連れて来た!!」


 湖を突き破り、空中に飛び上がる。

 舞い上がった水しぶきが民に降りかかるのと同時に、空が黒く染まっていった。

 湖岸に立つ人々をぎろりと睨む。

 その目は赤く、恐ろしい光を放っていた。


 見たことのない彼女の様子に、人々は惑った。

 天変地異のような有様に、正常な判断能力を失ってしまった。


「彼女は、本当にノヴィレアさまなのか…?」

「偽物ではないか…」

「否、これまでの姿が偽りだったのかもしれぬ…」


 彼らの疑念は、真っ直ぐ彼女に伝わり、とうとうノヴィレアの怒りは頂点に達した。


「裏切りだけでは飽き足らず、妾を侮辱する気か!!」


 直接向けられた女神の怒りに、村人たちは恐れおののき、腰を抜かした。

 涙を流す者、命を諦めた者、様々であったが、ノヴィレアには彼らを傷つけるつもりはなかった。


 しかし折悪く、そこには男神ラマスがいた。


「皆さん、私の後ろに下がりなさい。女神に殺されてしまいますよ。私が守って差し上げます」


 ノヴィレアはラマスを、憎悪に満ちた目で睨みつける。


「黙れ悪神ラマス!妾を排し、この地を乗っ取るつもりか!!」


 水の銃弾が、ラマスへと降り注ぐ。

 民はそれを目にすると、恐怖に駆られて叫んだ。


「お助けを!ラマスさま!」

「女神から、どうか我らをお守りください!」


 ノヴィレアは、信じられない思いで彼らを見つめた。


「そなたら…妾を忘れたのか…妾と過ごした日々を、忘れてしまったのか……?」


 女神の美しい顔は哀れなほどに青ざめ、か細い声は絶望に染まっていた。

 しかし、混乱のさなか、その声を聞き届けた者はいなかった。


「助けて…!お助けをラマスさま!」

「どうか彼女を鎮めてください!」

「……何故、妾を信じぬ。何故妾を恐れる!何故その悪神の側へ回るのだ!!」


 悲しい叫びがサフラ湖に響き渡り、ノヴィレアの瞳から冷たい涙が落ちた。




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