第四十話 サフラ湖の女神 ノヴィレア
「ルコット!!」
体の浮遊感が消えないうちに、私の首に勢いよく腕が回されました。
荒れ狂う船の上、全身に水を滴らせたヘレンさんの、冷え切った体温と、絶え間ない嗚咽。
その縋るような抱擁に、遠のきかけていた意識が、急速に回復していきました。
「ヘレンさん…今まで、ずっとここに…?」
「ばか…っ、ばかばか、ばか…!湖に飛び込むなんて…!」
雨と涙で、彼女の顔はぐしゃぐしゃです。
そのときになって初めて、船が、先ほどの位置から動いていないことに気づきました。
周囲を見回すと、船員の方々が、安堵の表情を浮かべられています。
「良かったな、お嬢さん。助かって」
「君が湖に落ちたとき、その子が船室に駆け込んで来たんだよ。『船を止めなさい!』ってな」
「『助けに行く!』って言って聞かないのなんの。『せめて嵐が止むまでは待て』って抑えてたんだよ」
ヘレンさんのすすり泣きが、胸に刺さります。
残された彼女は、一体どんな思いで、この黒い湖を見つめ続けていたのでしょう。
「…ヘレンさん、私…」
「うるさい!ばか!向こう見ず…!どれだけお人好しなのよ…!」
私は、ヘレンさんの背に手を回し、それから、ぎゅっと抱きしめました。
「…ごめんなさい、ヘレンさん」
「…許せないわ…腹が立って仕方ないの…私自身に…!私、どうすることもできなかった!何もできなかった!あなたが死ぬかもしれないっていうのに、ここで震えながら待ってることしかできなかった…!」
「そんなことはありません、ヘレン嬢」
振り返ると、隣のホルガーさまが真剣な表情で頭を下げられました。
「あなたが管制室の魔術師と連携をとってくださらなければ、俺はここへ転移することはできませんでした」
「どういうことですか?」
そういえば、ホルガーさまはどうやってあの場にいらしたのでしょう。
「魔導師団長のお力ですよ」
「ハントさまの?」
「はい。殿下の居場所を突き止めてくださり、俺をそこへ転移してくださいました」
転移というのは確か最上級魔法のはずです。
遠隔からそんなことが行えるものでしょうか。
「転移魔術は、異なる地点の魔力と魔力を結び、物質および肉体を移動させること。つまり、理論上は転移前と転移先に二人の魔術師がいれば可能なのです。幸いシュトラは大きな街ですから、転移施設がありました」
「でも、ここには転移施設はありませんわ」
首をかしげる私に、ホルガーさまは穏やかに微笑まれました。
「師団長は規格外の方なので、心配には及びませんでした。遠隔から俺に魔力を飛ばし、この船の操縦士の元へ飛んで、そこから殿下の魔力を頼りに、湖の底へ飛ばしてくださったというわけです」
「…まぁ」
「…無茶苦茶だわ」
ヘレンさんは涙を拭いて、呆れたようにため息をつかれます。
「しかもその人、私たちの頭に直接話しかけてきたのよ。『やぁ、突然だけど頼みたいことがあるんだ』って。通信魔水晶もないのに」
確かに無茶苦茶だと、素人の私にも分かりました。
そもそも、いくら魔術師の方の中継ありきでも、私の微かな魔力を目印に使うなんて、信じがたい話でした。
「…魔力量にしても精神力にしても、あんな離れ業、普通できないし、もし万が一できたとしても、命を燃やす覚悟が必要なくらいよ」
「そんな…」
さすがに命を削るような無茶はされていないはずですが、大丈夫でしょうか。
「確か、ハントさまは病み上がりだったと思うのですが…」
「大丈夫ですよ。ピンピンしていましたから。……無駄口を叩けるくらいには」
いつになく苦々しげなホルガーさまの表情が気にかかりましたが、どうやらハントさまはご無事のようです。
「良かったです。帰ったら、お礼に伺いますね」
「…そうですね、礼の一つくらいは言わねばならないでしょう」
「……あなたたち、突っ込みどころは満載なんだけど、まずは帰れるか、でしょう?」
ヘレンさんが、胡乱な目で渦巻く湖上を指されます。
「アレ、どうするのよ?」
闇を煮詰めたような水面が、ぼこり、ぼこりと盛り上がり、鳴り響く雷が強くなっていきます。
脳髄に響くような音、全身にビリビリと伝わる振動。
その光景はまるで、この世の終わりのようでした。
そのとき、盛り上がっていた湖面が、爆発にも似た勢いで突き破られました。
水中から、ぎらぎらと瞳を燃やし、黒い水を滴らせ、王女さまが現れます。
その目は、真っ直ぐにこちらに向けられていました。
「女神さま…ノヴィレアさまだ!」
腰を抜かしたように倒れ込む方々。
うずくまり、祈りを捧げる人々。
船上は、混乱の渦に飲み込まれました。
「そんな…まさか本当に…ノヴィレアさまは父と母が封じたはず…」
「ヘレンさん、あの方がどなたかご存知なんですか!?」
冷え切った顔を更に白くしたヘレンさんが、震える唇を開きます。
「…あの方は、サフラ湖の女神、ノヴィレアさま。十年以上前、私の両親が封じた方よ」
* * *
アルシラには、固有の伝説が無数にあった。
吹雪の精霊の話。
雪原の主の話。
春風の妖精の話。
いずれも、寝物語に語り継がれ、この地に深く根付いたものである。
しかし中でも、「サフラ湖の女神さま」を知らぬ領民はいなかった。
かつて、草木の芽吹かぬ氷結の地であったこのアルシラに、暖かな春を連れて来た一人の女神がいた。
名をノヴィレア。
雪のように白い肌、金色の髪、春の空のような瞳。
美しく、慈悲深い女神だった。
吹雪で作物が育たない年は、民が飢えぬよう、野山の恵み、湖の魚を分け与えた。
雪山で惑う民には、帰路を指し示した。
そして、毎年必ず暖かな春を運んで来た。
人々は彼女を愛し、彼女もまた、人々を、アルシラの地を愛していた。
そのうち、次第に移り住んで来る民が増え、田畑が広げられ、村が町になり、町が都市へと変わっていった。
人々は、昼も夜も働き、領外の者と商売を始め、小金を稼ぐ者も増えていった。
アルシラの地は、着実に豊かになっていった。
しかし、豊かさと引き換えに、人々は時間と余裕を失ってしまった。
恵みに感謝をする間もなく、機械のように食事を繰り返し、慌ただしく早送りする日々。
女神の存在を忘れることはなかったが、心地よい疲労感につられ、夜の祈りを疎かにする者さえいた。
それでも、ノヴィレアは喜んだ。
飢えることも、凍えることもなくなった民の、健やかな毎日を。
そして役目を終えた彼女は、アルシラの象徴、サフラ湖の底へ身を落ち着けることにした。
仲間を呼び、小さくも美しい城を建てた。
家族とともに過ごす穏やかな日々。
柔らかな日の差し込む、清らかな水の都。
城下には続々と家が増えていった。
昔馴染みの精霊や妖精が、年を経るごとに集まって来た。
まれにアルシラの人々が、その美しい水の都を見に来ることさえあった。
そんなときでもノヴィレアは、愛すべき見学者を受け入れ、夕刻には安全に地上へ返せるよう取り計らった。
その平穏な幸せは、永遠に続いていくかのように思われた。
ある日のこと、テスラという村に、一人の男神が現れた。
彼は村人を集め、こう言った。
「私はラマス。ノヴィレアの夫だ。遠い昔に喧嘩別れをした妻と今一度仲直りをしたい。どうか湖の底から呼び寄せてくれないか」
村人は訝しんだ。
元よりテスラは、アルシラの中でも気候が厳しく、女神の恩恵を飛び抜けて享受していた。
そのため、他より信仰の厚い土地でもあったのだ。
村人を代表し、村長が反駁した。
「神に対して不遜なのは、百も承知で申し上げる。証拠がなければ我々は動けない。何故ならば、我らはいつもノヴィレアさまの味方であるからだ」
男神は「道理」と頷くと、ぱちりと指を鳴らした。
すると、一陣の風とともに、眩い少女が現れた。
「この子は私とノヴィレアの子どもだ」
子神は儚げに微笑んだ。
雪のように白い肌、金色の髪、春の空のような瞳、その慈悲深い微笑み。
全てが彼女のものであった。
もはや誰も疑いを持つ者はいなかった。
その子は、まさしく「ノヴィレアの娘」だった。
「…良かろう。ついて参れ」
村長は一つ頷くと、村人とともに男を湖へと連れていった。
その日も、変わらず穏やかな一日を送っていたノヴィレアは、湖の淵から聞こえてくる民の声にハッとした。
「ノヴィレアさま。夫君と子神さまをお連れいたしました」
「どうかこちらへおいでください」
ゾクゾクと粟立つ背筋。おぞましい気配。
ノヴィレアは思わず我を失って叫んだ。
「裏切り者どもめ!!何故そやつを連れて来た!!」
湖を突き破り、空中に飛び上がる。
舞い上がった水しぶきが民に降りかかるのと同時に、空が黒く染まっていった。
湖岸に立つ人々をぎろりと睨む。
その目は赤く、恐ろしい光を放っていた。
見たことのない彼女の様子に、人々は惑った。
天変地異のような有様に、正常な判断能力を失ってしまった。
「彼女は、本当にノヴィレアさまなのか…?」
「偽物ではないか…」
「否、これまでの姿が偽りだったのかもしれぬ…」
彼らの疑念は、真っ直ぐ彼女に伝わり、とうとうノヴィレアの怒りは頂点に達した。
「裏切りだけでは飽き足らず、妾を侮辱する気か!!」
直接向けられた女神の怒りに、村人たちは恐れおののき、腰を抜かした。
涙を流す者、命を諦めた者、様々であったが、ノヴィレアには彼らを傷つけるつもりはなかった。
しかし折悪く、そこには男神ラマスがいた。
「皆さん、私の後ろに下がりなさい。女神に殺されてしまいますよ。私が守って差し上げます」
ノヴィレアはラマスを、憎悪に満ちた目で睨みつける。
「黙れ悪神ラマス!妾を排し、この地を乗っ取るつもりか!!」
水の銃弾が、ラマスへと降り注ぐ。
民はそれを目にすると、恐怖に駆られて叫んだ。
「お助けを!ラマスさま!」
「女神から、どうか我らをお守りください!」
ノヴィレアは、信じられない思いで彼らを見つめた。
「そなたら…妾を忘れたのか…妾と過ごした日々を、忘れてしまったのか……?」
女神の美しい顔は哀れなほどに青ざめ、か細い声は絶望に染まっていた。
しかし、混乱のさなか、その声を聞き届けた者はいなかった。
「助けて…!お助けをラマスさま!」
「どうか彼女を鎮めてください!」
「……何故、妾を信じぬ。何故妾を恐れる!何故その悪神の側へ回るのだ!!」
悲しい叫びがサフラ湖に響き渡り、ノヴィレアの瞳から冷たい涙が落ちた。




