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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第二章 北の大地 アルシラ
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第三十九話 再会


 そこは、変わらず不思議な場所でした。

 温度もなく、音もなく、時間の流れも感じられません。

 外はあれほど荒れ狂っていたのに、何故か水中には光が射していました。


「どなたですか?私を呼んでいたのは」


 その場に漂いながら問いかけます。

 そこに誰かがいることは、わかっていました。


――愚かな娘よ。


 突然、パッと稲妻のような光がチラつきました。

 思わず後退りそうになる足を叱咤し、なんとか踏みとどまります。

 私は、内心恐れていました。

 誰の助けも得られない、何が起こるかわからない、この状況を。

 それでは何故、私はここに来たのでしょう。

 それは、自分でもわかりません。

 ただ、私はその場から、一歩も退きたくはありませんでした。


「…あなたは、誰ですか?」

 

 目と鼻の先に現れたのは、美しい女性でした。

 金色の髪に、水色の瞳。

 折れそうなほどに細い、白い体。

 鮮やかな青いドレス、銀色のティアラ、首飾り。

 大きな瞳がこちらをひたと見つめ、その口が静かに開かれました。


「妾は、この湖の国の王女だ」


 私は、息を呑みました。

 まさかサフラ湖の底に王国があるなんて。


「私は、ルコットと申します」

「知っている。サーリの血を引く人間よ」

「あなたは人間ではないのですか?」


 その問いに、彼女は弾かれたように笑い始めました。

 その笑いは、ぞっとするほど冷たく、私の問いに怒っているのだということが、すぐにわかりました。

 思わず身震いすると、彼女はぎろりとこちらを睨みつけます。

 その目は、明らかな憎悪に染まっていました。

 

「妾を汚い人間と一緒にするな小娘!!」


 身の竦むような怒声とともに、激流が襲いかかります。

 私は声を出すこともできず、ただうずくまり、迫り来る水流から身を守りました。


「お前たちが!妾に!この水の都に下した仕打ちを!申してみよ!」


 断続的に襲い来る攻撃に、次第に意識が遠のいていきます。

 情けないことに、私には、彼女の怒りの原因が全く分かりませんでした。


(かつて、この国に何が…)


 考えようにも意識にもやがかかって、うまく頭が働きません。

 そもそも、ここへ来るまで、サフラ湖の存在さえまともに知らなかったのです。

 

(…私が、不甲斐ないばかりに)


 私は生まれて初めて、奥歯を噛みしめました。

 悔しい。

 自国の歴史さえ知らないばかりに。

 眼前の彼女の苦しみを理解することができない。

 かける言葉さえ、見つからない。


(そしてこのまま、二度と彼に会えなくなってしまう)


 そのとき、私の心を支配したのは、深い後悔でした。


(もし、あれが最後だとわかっていたら、あんな態度は取らなかった)


 もっと素直に、あの時を楽しめばよかった。

 彼の差し出した手を、握ればよかった。


(……好きだと、伝えてしまえばよかった)


 私は泣き出しそうになるのをこらえて、震える声で叫びました。


「わかりません!!」


 濁流に飲まれながら、苦しくて苦しくて、喉を抑えながら。それでも、全ての息を吐き出すように、私は声を張り上げました。


「私は、知ろうとしてこなかったから!知るべきことがあることも、知らなかったから!」

「……何を」


 水流が弱まったのか、胸を圧迫するような水圧も、視界をぐちゃぐちゃにしていた激流も、気にならなくなりました。

 同時に、王女さまの張り詰めた表情が微かに見えます。

 私は、彼女の瞳に、叫び続けました。


「でも、私はあなたの助けになりたいのです!だって、ここでこうしていても、あなたはきっと幸せにはなれません!いつまでもずっと、苦しいままです!そんな悲しいことってないじゃないですか!」


 ものを知らない私でも、知っていました。

 孤独の寂しさ、過去に縛られる苦しさ、失ったものを嘆く悲しみを。


「教えてください!私に何ができますか!どうしたら、あなたを助けることができますか!」


 彼女は、茫然とこちらを見つめていました。

 行き場をなくした感情が渦巻くように、彼女の周りを、不穏な水流が回っています。


「……ふざけるな」


 無表情な唇から、小さな呟きがこぼれます。

 そして、それを皮切りに、彼女は髪を振り乱して叫びました。


「ふざけるな!ふざけるな!!お前に何がわかる!何不自由なく!何の苦労もなく!のうのうと生きてきたお前に!!」


 これまでより、さらに強い波が押し寄せてきます。

 既に光は絶たれ、水中は、インクをこぼしたような闇の世界に変わっていました。


「全てを失った!みんな!みんな消えていった!!ひとり残された私の気持ちが!お前にわかってたまるか!!」


 彼女は、両手をふりかざして、先ほどより更に大きな激流を生み出しました。

 もはや身動きひとつ取れないほどの圧迫感と、絶え間ない痛み。

 私は、自分の目から泡のような涙が浮かんでいくのがわかりました。

 

(私の言葉では、彼女の心に響かない)


 喉にせり上がってくる悔しさ、やるせなさ。

 私はただただその場に立ち尽くしました。


 何の苦労もなかった、何の努力もしてこなかった。

 そんな私の言葉に重みなどあるはずがありません。

 私の狭い見識で、誰かを理解し、助けたいなんて、馬鹿げたことです。そんなことは、わかっていました。


(…わかっています。私は、いつも無力だと。いつだって、役に立たない末の王女でした)


 黒い視界の中で、私はもはや足掻く力も、気力さえ、残っていませんでした。

 このまま目を閉じてしまおうか。

 そんな考えが、ちらりと脳裏をよぎり、徐々に瞼が下りていきます。

 情けない。

 婚礼のとき、新たな覚悟を決めたはずなのに。

 彼の信頼に足る自分になりたい、と。

 結局、私は何も変わっていなかったのでしょうか。

 最後に、二粒の涙が、小さく瞬いて、あぶくのようにのぼっていきました。


 そのとき、視界が、真っ白な光に包まれました。


 閉じかけていた瞼に温かな熱が伝わってきます。

 太陽のような光でした。


「何だ…!?」


 顔を覆う王女さまの前に、ぼんやりと人影が浮かび上がります。

 その瞬間、私の口は叫び出していました。


「ホルガーさま…!」


 霞む視界の中、私の体は歓喜に震えていました。

 きっと、両眼の視力を失っても、耳が聞こえなくなったとしても、そこに彼がいることを全身で感じ取ってしまうでしょう。

 どうやらもう、手遅れのようです。

 誤魔化しようがないほどに、私は彼が恋しくて、恋しくて、仕方がありませんでした。


「殿下!!」


 ホルガーさまは、私の姿を捉えると、驚いたように両目を見開かれ、苦しげに眉を寄せられました。


「…そんなに、怪我をされて」


 そのときになって初めて、私は自分の体を見下ろしました。

 ラベンダー色のコートは、ズタズタに引き裂かれ、いたるところから血が滲んでいます。

 痛みは水圧のせいではなくて、鋭い水流で斬られていたためだったようです。


「…何でもないんです、こんなのは。そんなことより、私はホルガーさまに謝らないといけないことが、たくさんあって…」

「…何を言うのですか」


 ホルガーさまは、虚をつかれたような表情で、首を振られました。


「…殿下が謝ることべきことなど、何もないのですよ」


 静かに伸ばされた手が、私の頬を撫でます。


「泣かないでください。俺は、あなたの笑顔が好きなんです」


 その瞬間、空気を切り裂くような呻き声が、辺りに響き渡りました。


「何だお前は!どこから妾の国へ入り込んだ!!」


 ホルガーさまは、長衣マントの下へ私を隠すと、彼女の方へぎろりと視線を向けられました。

 抜き身の刃物のような眼光。

 びりびりと震える空気。

 凍てついた表情。

 全てが、私の知らないものでした。


 背筋にゾッとしたものが走り、手足が小刻みに震えてきます。

 私の理性全てを差し置いて、生物としての本能が、彼を危険だと知らせているようでした。


(そんなはずはない…彼は、とても優しい人よ)


 自分に言い聞かせるように、何度もそう念じます。

 それなのに、震えは一向におさまらず、肌に突き刺さるような殺気に、意識さえ朦朧とするほどでした。


 眼前の彼女も、青ざめた顔をわなわなと震えさせています。

 それでも、両足はその場から一歩も退いてはいませんでした。

 それは、矜持にも、意地にも見えました。


「無礼者…!妾にッ!その目を!向けるなァ…!!」


 彼女が全身を使って腕を振ると、大鉈のような水刃が、一斉に放たれました。

 思わず、ホルガーさまの軍服をきつく握りしめ、息を呑みます。

 しかし、それらがこちらに到達することはありませんでした。

 ホルガーさまの抜いた剣が、一刃のうちに、全てをあぶくへと変えてしまったためです。


 水中であるのに、爆風にも似た衝撃が全身を襲います。

 押し流されそうになる体を、ホルガーさまが肩を抱いて庇ってくださいました。


「……ホルガーさま」


 カラカラに乾いたような喉から、すきま風のような声がもれます。

 彼の耳には届かなかったのでしょう。

 ホルガーさまは視線を彼女に据えたまま、第二刃を放たんと腕を振りかぶりました。

 慌ててその腕にすがりつき、必死で首を振ります。


「だめ、だめです、ホルガーさま、どうか」


 息が詰まって上手く言葉を継げない私を、ホルガーさまは、信じられないものを見るかのような目で見つめていました。


「どうか、彼女を、傷つけないでください」


 ホルガーさまの瞳が、揺れます。

 彼の肩越しに見える王女さまも、同じ表情をされていました。


「お願いです、彼女は、きっと、悪くないんです」


 ホルガーさまは、カタカタと震える私の手に目線を落とし、その手をぎゅっと握ってくださいました。


「…一度、撤退しましょう」


 ふわりと包み込むように抱きしめられ、体中がその温度に安堵し、力が抜けていきます。

 彼が小さく「…撤退だ」と呟くと、再び、あの眩い光が溢れ出しました。

 彼の腕の中で、体が徐々にその場を離れていくのを感じます。


 白い光の中、悲壮な表情の王女さまの薄い唇が、微かに動いた気がしました。




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