第三十七話 故郷との別れ
「父さまと母さまがいなくなったあの日から、家には一度も帰ってないの」
私たちは、丘の上の家を目指して、黙々と坂道を登り始めました。
* * *
あれから、ヘレンさんは瞬く間に荷造りを終えられました。
荷物は大鞄一つだけ。
「もともと持ち物が少ないのよ」
彼女は、平気な顔でそう仰いましたが、十数年分の私物が鞄一つに収まってしまうなんて――言葉もありませんでした。
薄暗い屋根裏部屋は埃っぽくて、冷たい隙間風が吹き込んできます。
痩せてささくれ立った手足も、ところどころに浮かんでいる痣のあとも、全てが、これまで受けてきた仕打ちを物語っているようでした。
「今日はここに泊まって、明日の朝すぐ出ましょう」
「は…はい、そうしましょう」
日が傾き始め、外気が一気に冷え込んでいるようです。
窓越しに、きんとした空気が伝わってきて、思わず身震いしてしまいます。
それを見て、ヘレンさんは苦笑されました。
「寒いでしょ?でも今日は二人だから、いつもより暖かいわ」
そして、彼女は素早く夜間着に着替えると、私の隣に体を滑り込ませました。
毛羽立った毛布を首まで上げ、いたずらっ子のように笑われます。
「狭くない?」
「いえ、全然!それに先ほどより暖かいです」
ヘレンさんと隣り合っていると、はぐれてしまった心細さも和らぎました。
先程まで斜陽で赤く染まっていた室内が、徐々にすみれ色へ、そして、冴えたネイビーブルーへと変わっていきます。
その間、私たちは身を寄せ合いながら、色々な話をしました。
「そういえば、ルコットはいくつなの?」
「今年十六になりました」
「ふぅん、じゃあ私より一つ年下なのね。落ち着いてるから、もっと上かと思ったわ。あ、褒めてるのよ?」
思えば、同年代の方とこんな風にお喋りするのは、初めてのことでした。
(もっと積極的に御茶会に参加していれば、友だちもできたのでしょうか…)
「ちょっと、何難しい顔してるの?」
ほっそりとした指で、額をトンと小突かれます。
私は何とか微笑もうとしましたが、弱々しい笑顔になっているのが自分でも分かりました。
「…最近、悩んでしまうことが多くて」
例えば、ホルガーさまのこと。
この先の結婚生活。
これまでの後悔。
もし、きちんと勉強をしていれば。
もし、社交を怠らず、人脈を広げていたならば。
(…私は、堂々とホルガーさまの隣に立てたのかしら)
ヘレンさんは、じっとこちらを見つめた後、優しく口を開かれました。
「昔、母さまがよく言ってたことよ――大丈夫、上手くいくわ。だって、私たちすごく努力してるもの、って」
はっとしました。
私は、これまでしてこなかったことばかりを後悔してきました。
そして「私なんて」と情けない自分から目をそらし、手放そうとしていたのです。
恐らくはもう二度と出会えない、唯一無二の、かけがえのない方を。
あれだけの真心を尽くしてくださる方を、一方的に。
ヘレンさんの細い指が、私の髪を撫でました。
「ルコット、私の目から見ても、あなたすごく頑張り屋よ。見ず知らずの他人を助けるために、こんな所まで来ちゃうんだもの」
涙が溢れてきて、視界が歪みます。
何故涙が出るのでしょう。
張りつめていた糸が、ぷつん、と切れたかのようでした。
私は、鼻が赤くなるのもお構いなしに、涙を流し続けました。
「大丈夫、全て上手くいくわ。大丈夫」
涙を流しているうちに、不安も、切なさも、少しずつ流れ出ていくかのようでした。
とん、とん、と背中にリズムを感じ、微睡むような眠気がやってきます。
いつの間にか、ヘレンさんは、静かな歌を口ずさまれていました。
――踊りましょう
きらきらと凍った湖の上で
細い月がわたしたちを見てる
ここは雪の都アルシラ
白い花を捧げましょう
雪のように美しいアルシラの女神さま
春が遠くても大丈夫
わたしたちは守られているわ
童謡でしょうか。
溶けるような歌声が、沁み渡ります。
ひどく安心した心地で、私は両目を閉じました。
(…ホルガーさまを愛しても、良いのでしょうか)
もう何度目になるのかも分からない問いが、胸に、ぽつんと浮かんできます。
(…彼にはもっと、相応しい方がいるのではないかしら)
遠くに、ヘレンさんの歌が聞こえました。
――女神さまは信じている
人の子の愛を
サフラ湖のお城で祈ってる
この世で最も尊く、美しいもの
* * *
「ここはもう、雪が積もり始めてるんですね」
足元から、ざく、ざく、と音がします。
早朝だからでしょうか。
ヘレンさんの生家がある丘は、霜が降りたように、うっすらと白くなっていました。
「そうね」
荷物を背負い直されて、ヘレンさんは、どこか遠くを見つめられています。
もしかしたら、何も言わずにあの家を出たことを、少しだけ、後悔されているのかもしれません。
――長い間、お世話になりました。
簡潔な一文だけのメモと、これまでこつこつと貯めてきたのだという、全財産を詰めた封筒。
それだけを残して、私たちはあの家を後にしました。
落ち着いて、振り返ることもせずに。
恐らくヘレンさんは、遠からず、あの家を出るつもりでいたのでしょう。
「ルコット!何ぼんやりしてるの?家の中に入るわよ」
元気の良い声が、辺りに響きます。
ヘレンさんはいつも通り、凛と背を伸ばされていました。
「はい、今行きます!」
強いなぁ、私とは違うなぁ、なんて、そんなことを考えながら、私はヘレンさんの後へと続きました。
* * *
部屋の中は、十年以上無人だったとは思えないほどに綺麗でした。
恐らくは全て、当時のままなのでしょう。
簡単な炊事場に、小さなベッド、テーブルが一つに椅子が二つ。
あの映像で見たとおりの光景が、そこにはありました。
一つ違いがあるとすれば、二つの椅子の間に、小さな椅子が置かれていることくらいです。
まるで時が止まっているかのようでした。
うっすらと積もった埃がなければ、今にも「ただいま」と誰かが帰ってきそうです。
ヘレンさんは、そっと歩き出すと、テーブルに指を滑らせました。
白い天板に、指の跡がすーっと入り、代わりに彼女の指先が灰色に染まります。
窓から差し込む朝日を見つめ、彼女は暫しその場に佇んでいました。
言葉は、ありませんでした。
逆光になった彼女の背は、やはりぴんと伸ばされたまま。
腰で揺れる灰色の髪が、埃の舞う室内に、長い影を落としています。
そのとき、ふとベッドの脇に、一冊の本が落ちているのに気が付きました。
ヘレンさんもちょうど同時に気付かれたようで、そっと拾い上げられます。
表紙の埃を払うと、辺りに砂埃が舞いました。
「ヘレンさん、その本は?」
私がおずおずと背後から声をかけると、彼女はゆっくりと振り返りました。
そして、その頬は、静かな涙に濡れていました。
「……ヘレンさん」
「…日記よ。これはきっと、母の字ね」
ヘレンさんは、ぱらぱらとページをめくって見せてくれました。
その本は、
――今日から、ここが私たちのお城。
という一文から始まっていました。
何気ない日常のささいな出来事。
見たもの。食べたもの。話したこと。
ほとんどのページに、「レンが」「レンと」「レンに」と書かれていました。
穏やかな幸せが伝わってくるようでした。
――今日、宝物を授かりました。
愛しい子、ヘレン。
この子のためなら、何でもできる。
ヘレンさんは、そのページを何度も指でなぞり、唇を噛み締めていました。
ぱたぱたと、水滴が紙を叩く音だけが響きます。
そこからは、登場人物に「ヘレン」という字が加わりました。
――今日ヘレンが初めて掴まり立ちをしました。
レンがあまりに喜ぶので、お祝いにケーキを焼きました。
「…大げさね」
涙をこぼして読み進めながら、ヘレンさんは小さく微笑みを浮かべます。
その表情は、ページをくるごとに穏やかになっていきました。
――ヘレンのおかげでもらえる仕事が増えて、だいぶ生活に余裕が出てきました。今日は白いパンを買おうと思います。
――村の人たちがヘレンに会いに、家に遊びにきてくれました。とても賑やかで、楽しい一日でした。
――今日はヘレンの誕生日。晩ごはんは何がいいかしら。レンに相談してみようと思います。ケーキを二段にしたら喜んでくれるかしら。
そして、とうとう最後のページにたどり着いたとき、彼女はもう涙を流してはいませんでした。
――大好きなこの町と、大切なこの子を守るために。
私は私にできることをすると決めました。
ヘレン。私たちの希望。
どうか、この子の生きる世が、明るいものでありますように。
レンの魔力が込められた人形が、どうかこの子を守ってくれますように。
「……母さま」
ヘレンさんは静かに跪くと、朝日に向かって胸の前で手を組みました。
まぶたを降ろし、微かに俯く彼女の姿を、明るい日の光が厳かに照らし出します。
もう二度と会えない両親への祈り。
それは、未来への誓いにも見えました。
あの日のサラさんはきっと、同じ場所で、同じように祈りを捧げていたに違いありません。
幼い愛娘の幸せを、願って。
「さぁ、船着場へ行きましょう。シュトラ行きの船がもうじき出るわ」
立ち上がったヘレンさんは、そう言って、強く微笑まれました。
何か憑き物が落ちたような、自然な笑顔。
凛とした佇まい。
もう心残りはないのだと、その全てが物語っていました。
「…はい、行きましょう。一緒に」
私が思わず差し出した手を、ヘレンさんははにかみながら、しっかりと握られました。
「…ルコット、あなたがいてくれて、良かったわ」
私は、何をしたわけでもありません。
気の利いた慰めの言葉さえ、掛けることができませんでした。
それなのに、ヘレンさんは穏やかな声で仰いました。
「一緒に悲しんでくれて、ありがとう」
私がかろうじて首を振ると、ヘレンさんは困ったように眉を下げて笑われました。
「…あなたが、その美しさに早く気づきますように」




