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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第二章 北の大地 アルシラ
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第三十五話 離ればなれに


――許せない、許せない。


 水の中なのに、すすり泣きが聞こえてきます。


――あんな風に、妾を葬り去るなんて。


 一体、誰が泣いているのでしょう。


「誰ですか?」


 口を開くと、声が出ました。

 不思議な場所でした。

 透明な水は冷たさも感じず、水面から差し込む日の光が、水中の世界を真昼のように照らします。

 水底に咲いた花々が、水流に従って揺れていました。

 

――魔力を、魔力を。


「魔力?私の魔力が欲しいのですか?」


――それさえあれば、今度こそ。


「でも、私それほど魔力は多くないのですよ?」


 私が答えると、声の主は黙ってしまいました。

 ふよふよと漂いながら、辺りを見回します。

 しかし、人影一人見当たりません。

 気を悪くしてしまわれたのでしょうか。


「お困りのようですし、何かできることがあれば、お手伝い致しましょうか…?」


 もう一度声を掛けると、またしばらく沈黙が続きました。

 余計なお世話だったのかもしれません。


「あの、すみません…差しでがましいことを」


――…もう良い、興が削がれた。


 その瞬間、再び抗いがたい濁流に飲まれて、私は、眠るように意識が遠のいていくのを感じました。



* * *



「ちょっと!ちょっと!お姉さん!」


 ぱちぱちと頬を叩かれる感覚に、再び意識が浮上します。


「生きてる!?ねぇ、返事をしなさいよ!」


 大丈夫です。

 そう伝えたくて、私はとりあえず、難儀しながらも目を開けました。

 屋外なのでしょうか。

 あまりの眩しさに、世界が真っ白に見えます。

 そのまましばらくすると、徐々に輪郭が戻ってきて、視界が開けてきました。


 そうして、一番最初に目に映ったのは、眉間に皺を寄せた女性でした。

 不安げにこちらを覗き込んでいます。


「大…丈夫」

「全然大丈夫じゃないことは分かったわ!」


 彼女はそう言うと、バスケットの中からタオルを取り出し、体を拭いてくれました。


「あ、じ、自分で、できます」

「いいから!じっとしてなさい」


 そのときになって、私は自分が全身ずぶ濡れなことに気づきました。

 寒さを通り越して、感覚さえありません。


「お姉さん、湖に落ちたんでしょ?よく無事だったわね。こんな冷たい水、運が悪ければ即あの世行きよ?」


 私は全身の震えを感じながら、ようやく刺すような外気の冷たさを感じ始めました。


「歩けそう?難しければ誰か呼んでくるけど」

「いえ…歩けます」


 彼女は少しだけ眉をひそめてから、「そう」と肩を貸してくださいました。


 それにしても、どこかで見覚えのあるお顔です。

 どこだったかしら、と首をひねっていると、彼女のバスケットの中に、見覚えのある人形を見つけました。


「あ!!」

「うわ!何よ!」

「ヘ、ヘレンさんですか!?」


 何の脈絡もない大声に、彼女は不審げに顔をしかめられます。


「そうだけど…何で私の名前知ってるの?」



* * *



「殿下はどこだ…!」


 全身に水を滴らせながら、ホルガーは通信魔水晶を睨むように見つめた。

 

「大将、とりあえず着替えてきては?」


 隣でアサトが口を挟むも、「そんな暇はない!」とひどく焦った様子で一刀両断される。


「まぁまぁ、ホルガー君、急がば回れと言うじゃないか。それにしても君、この時期のサフラ湖に飛び込んだのかい?」


 水晶越しに、ハントが窘めると、ホルガーの眼光がいっそう鋭くなった。


「辺り一帯探したが、殿下はいらっしゃらなかった。恐らくは、何か魔術の類だろう」

「話を聞いている限りは、そうだろうねぇ」


 どうにも緊張感のない魔導師団長の様子に、ホルガーの苛立ちは募る。


「殿下はどこにいるんだ!あんたなら探せるだろう!早く探せ!」


 常にない乱暴な口調に、アサトは驚いて言葉もなかった。相手は、あの魔導師団長である。

 だが、ハントに咎める様子はなかった。


「やってるんだけどねぇ…どうにも妨害が入ってうまくいかないんだ」

「国一番の魔術師だろ!何とかしろ!」


 完全に理性を失っているとしか思えない。

 これほど理不尽なホルガーは、一度たりとも見たことがなかった。

 その語勢に気圧されたアサトは、不覚にも肩を揺らしてしまう。

 しかし肝心のハントには、全く響いていないようだった。

 

「聞いたかい?アスラ君!きみの弟君は先程から私に無茶ばかり言うんだ!」

「…団長が逆撫でするからだろう」


 アスラはため息をつくと、「ホルガー」と呼びかけた。


「急いては事を仕損じる。冷静になれ」

「…分かっている」


 きつく握られた両手から、微かに血が滲んでいた。


「まぁ、心配しなくとも大丈夫。こちらでも捜査を進めていくからね」

「あぁ、魔導師団の総力を挙げて、愛義妹ルコットちゃんを探し出そう」


 アスラの周囲には、断続的な火花が散っていた。

 ハントはやれやれと首を振ると、「奴さんも厄介な姉弟を敵に回したものだ」と苦笑した。


「さて、ホルガー君、君もそちらでやるべきことがあるだろう」

「…はい、もう一度、あの湖を調査してみます」


 僅かに冷静さを取り戻したホルガーが頷く。

 すると、ハントは「それもだが」と意味ありげに笑った。


「協力を仰げば良いじゃないか。ベータ大将とブランドン大将に」


 アサトの顔がみるみる青ざめていく。

 三人の陸軍大将が揃う。

 それも、原因不明の事件のために。


(これは、この地が無事では済まないかもしれない)


 美しいアルシラの地が焼け野原にならぬよう、アサトは内心神に祈った。




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