第三十五話 離ればなれに
――許せない、許せない。
水の中なのに、すすり泣きが聞こえてきます。
――あんな風に、妾を葬り去るなんて。
一体、誰が泣いているのでしょう。
「誰ですか?」
口を開くと、声が出ました。
不思議な場所でした。
透明な水は冷たさも感じず、水面から差し込む日の光が、水中の世界を真昼のように照らします。
水底に咲いた花々が、水流に従って揺れていました。
――魔力を、魔力を。
「魔力?私の魔力が欲しいのですか?」
――それさえあれば、今度こそ。
「でも、私それほど魔力は多くないのですよ?」
私が答えると、声の主は黙ってしまいました。
ふよふよと漂いながら、辺りを見回します。
しかし、人影一人見当たりません。
気を悪くしてしまわれたのでしょうか。
「お困りのようですし、何かできることがあれば、お手伝い致しましょうか…?」
もう一度声を掛けると、またしばらく沈黙が続きました。
余計なお世話だったのかもしれません。
「あの、すみません…差しでがましいことを」
――…もう良い、興が削がれた。
その瞬間、再び抗いがたい濁流に飲まれて、私は、眠るように意識が遠のいていくのを感じました。
* * *
「ちょっと!ちょっと!お姉さん!」
ぱちぱちと頬を叩かれる感覚に、再び意識が浮上します。
「生きてる!?ねぇ、返事をしなさいよ!」
大丈夫です。
そう伝えたくて、私はとりあえず、難儀しながらも目を開けました。
屋外なのでしょうか。
あまりの眩しさに、世界が真っ白に見えます。
そのまましばらくすると、徐々に輪郭が戻ってきて、視界が開けてきました。
そうして、一番最初に目に映ったのは、眉間に皺を寄せた女性でした。
不安げにこちらを覗き込んでいます。
「大…丈夫」
「全然大丈夫じゃないことは分かったわ!」
彼女はそう言うと、バスケットの中からタオルを取り出し、体を拭いてくれました。
「あ、じ、自分で、できます」
「いいから!じっとしてなさい」
そのときになって、私は自分が全身ずぶ濡れなことに気づきました。
寒さを通り越して、感覚さえありません。
「お姉さん、湖に落ちたんでしょ?よく無事だったわね。こんな冷たい水、運が悪ければ即あの世行きよ?」
私は全身の震えを感じながら、ようやく刺すような外気の冷たさを感じ始めました。
「歩けそう?難しければ誰か呼んでくるけど」
「いえ…歩けます」
彼女は少しだけ眉をひそめてから、「そう」と肩を貸してくださいました。
それにしても、どこかで見覚えのあるお顔です。
どこだったかしら、と首をひねっていると、彼女のバスケットの中に、見覚えのある人形を見つけました。
「あ!!」
「うわ!何よ!」
「ヘ、ヘレンさんですか!?」
何の脈絡もない大声に、彼女は不審げに顔をしかめられます。
「そうだけど…何で私の名前知ってるの?」
* * *
「殿下はどこだ…!」
全身に水を滴らせながら、ホルガーは通信魔水晶を睨むように見つめた。
「大将、とりあえず着替えてきては?」
隣でアサトが口を挟むも、「そんな暇はない!」とひどく焦った様子で一刀両断される。
「まぁまぁ、ホルガー君、急がば回れと言うじゃないか。それにしても君、この時期のサフラ湖に飛び込んだのかい?」
水晶越しに、ハントが窘めると、ホルガーの眼光がいっそう鋭くなった。
「辺り一帯探したが、殿下はいらっしゃらなかった。恐らくは、何か魔術の類だろう」
「話を聞いている限りは、そうだろうねぇ」
どうにも緊張感のない魔導師団長の様子に、ホルガーの苛立ちは募る。
「殿下はどこにいるんだ!あんたなら探せるだろう!早く探せ!」
常にない乱暴な口調に、アサトは驚いて言葉もなかった。相手は、あの魔導師団長である。
だが、ハントに咎める様子はなかった。
「やってるんだけどねぇ…どうにも妨害が入ってうまくいかないんだ」
「国一番の魔術師だろ!何とかしろ!」
完全に理性を失っているとしか思えない。
これほど理不尽なホルガーは、一度たりとも見たことがなかった。
その語勢に気圧されたアサトは、不覚にも肩を揺らしてしまう。
しかし肝心のハントには、全く響いていないようだった。
「聞いたかい?アスラ君!きみの弟君は先程から私に無茶ばかり言うんだ!」
「…団長が逆撫でするからだろう」
アスラはため息をつくと、「ホルガー」と呼びかけた。
「急いては事を仕損じる。冷静になれ」
「…分かっている」
きつく握られた両手から、微かに血が滲んでいた。
「まぁ、心配しなくとも大丈夫。こちらでも捜査を進めていくからね」
「あぁ、魔導師団の総力を挙げて、愛義妹を探し出そう」
アスラの周囲には、断続的な火花が散っていた。
ハントはやれやれと首を振ると、「奴さんも厄介な姉弟を敵に回したものだ」と苦笑した。
「さて、ホルガー君、君もそちらでやるべきことがあるだろう」
「…はい、もう一度、あの湖を調査してみます」
僅かに冷静さを取り戻したホルガーが頷く。
すると、ハントは「それもだが」と意味ありげに笑った。
「協力を仰げば良いじゃないか。ベータ大将とブランドン大将に」
アサトの顔がみるみる青ざめていく。
三人の陸軍大将が揃う。
それも、原因不明の事件のために。
(これは、この地が無事では済まないかもしれない)
美しいアルシラの地が焼け野原にならぬよう、アサトは内心神に祈った。




