第三十四話 どうかこの想いに気づかないで
肺の中に冷たい空気が入るのを感じ、私は清々しさに背伸びしました。
早朝のシュトラは昨夜の喧騒が嘘のように静まり返り、登り切らない太陽と、街中に立ち込めた薄い霧が、幻想的な雰囲気を醸し出しています。
(ホルガーさま、まだかしら)
はやる胸を押さえながら息をつくと、空気が白く染まりました。
今回、湖までは馬で向かうことになったのですが、そうなると、馬に乗れない私は、必然的に二人乗りをしなければなりません。
それはさすがに馬の身が心配だと申し上げたのですが、ホルガーさまは、
「淑女お一人増えたところで変わりませんよ」
と仰るばかりでした。
きっと私の重量を見くびっていらっしゃるのでしょう。
心の内で、本日お世話になる気の毒な馬に、祈りを捧げました。
* * *
王都からほとんど離れたことのない私にとって、北方特有の冷たい空気は新鮮なものでした。
乾いた風の吹き方、明け方の冷え込みようは、王都の冬を思わせます。
「真冬の格好で出てきてください」
というホルガーさまの言に従って正解でした。
そうして無人の街路で体を温めていると、ホルガーさまが馬を引いてやって来られました。
「お待たせしました。やはり寒いですか?」
「はい、少し。ホルガーさまはそんな薄着で大丈夫なのですか?」
会議に備えてなのでしょう。
いつもの軍服よりもかっちりとした黒い正装をされています。
いつにも増して凛々しいお姿に、みるみる心臓が騒がしくなりました。それに気づかれないよう、そっと胸を押さえます。
対するホルガーさまは、じっと私の服を見つめられていました。
やはり着込みすぎだったのでしょうか。
しばらく様子を伺っていると、やがて重々しく口が開かれました。
「……とても、お似合いです」
聞き間違いかとも思いましたが、耳を赤くされているので、そうではないようです。
硬派なホルガーさまが服装を褒めてくださるとは、思ってもみませんでした。
「あ、…りがとうございます」
ただの社交辞令だと分かっていても、思わず赤面してしまいます。
このラベンダー色のコートは、サファイア姉さまがくださったものでした。
「仕立ててみたら、思いの外サイズが大きかったからあげるわ」
そう仰って、差し出されたこのコート。
上質な生地。
爽やかで可憐な色合い。
流行を取り入れたデザイン。
思わず胸が高鳴りましたが、同時に気後れしてしまいました。
美しいサファイア姉さまならきっとお似合いになるでしょう。
しかし、私が着ては、何だかちぐはぐになってしまう気がしました。
結局、たまに広げてみるだけで、袖を通したことはなかったのですが、今日はこのコートが気になって仕方がありませんでした。
とりあえず、サイズを見るだけ、と羽織ってみると、誂えたようにぴったりです。
顔色も、どこか明るく見えるような気がしました。
「…どうしましょう」
最後まで無難なグレーと迷ったのですが、決め手になったのは、アサトさまの一言でした。
「大将はきっと、どちらで行かれても喜ばれますよ」
それならば、と勇気が出ました。
せっかく二人で出かけるのだから、と。
「派手ではありませんか?」
そう尋ねると、ホルガーさまは、「いいえ!」と勢いよく首を振られました。
「本当に、お綺麗です」
表情から、本心だということが分かります。
これからは、もっと明るい色の服も試してみようと思えた瞬間でした。
* * *
馬に乗るのは初めてで、あまりの高さにくらりとしてしまったのですが、それもホルガーさまが跨がられるまでのことでした。
左肩から包み込まれるような体勢。
体の左側に、体温がじんわりと染み込んできます。
間近に感じる彼の香りと鼓動の音に、心臓が騒ぎますが、同時に、これ以上無いほど安心しました。
(ここはきっと、世界一安全な場所だわ)
そんな風に思う自分に、苦笑してしまいます。
出会ってまだ一年も経っていないというのに。
ホルガーさまの存在は日に日に大きくなっていて、最近では何をしていても彼のことを考えてしまうのです。
私を大切にしてくれる大きな両手に、どうしようもない愛しさを感じてしまいます。
彼が私を慈しんでくれるのは、ひとえに彼が情け深い方だから。
私を王家から嫁いだ妻として認め、相応に扱ってくださる方だから。
過度な期待を掛けてはいけない。そんなことをすれば、彼の負担になってしまう。
こんな私を娶り、妻として大切に扱ってくれる。
これ以上、望むものなどあるでしょうか。
いいえ、それ以上何かを望んではいけないと知っていました。
この気持ちを消してしまわなければ。
でないと、もしいつの日か、ホルガーさまに愛する人ができたとき、私は耐えられなくなってしまいます。
彼が他の女性の元へ行くとき。
想像するだけで涙がこぼれそうでした。
自分にこんなどろどろした部分があったなんて。
このままでは、私は嫉妬に狂い、彼の幸せさえ邪魔してしまうかもしれません。
そうなる前に、どうか――。
(私は彼の元を離れる準備をしておかないと)
私は寒がる振りをして、そっとマフラーで顔を隠し、痛む胸をやり過ごすために、きつく両目を閉じました。
ホルガーさまはそれに気づくと、さりげなく身を寄せて、風から守ろうとしてくださっているようでした。
* * *
――見渡す限りの青い山と白銀に輝く湖、そして星を散らしたような小さな花々。
昔スノウ姉さまのお話に登場した、美しい景色がそこにはありました。
「…綺麗」
「サフラ湖は、『大陸一大きな湖』としては有名ですが、その美しさはあまり知られていません」
「こんなに美しいのにですか?」
静かな朝日に照らされた湖面は、きらきらと眩しく、静謐な風に吹かれた花々が、優しくそよいでいます。
これほど素晴らしい情景なのに、確かに人影一つ見当たりません。
「えぇ、せいぜい地元の方の散歩コースですね」
「…それでは、もし、この風景を国外の方々に知っていただければ」
「フレイローズの物騒なイメージも、少しは払拭できるかもしれません」
私は、ホルガーさまを見つめました。
この方は、一体どこまで、私を甘やかせば気が済むのでしょう。
その優しさに、どれほど助けられ、どれほど泣き出しそうになっているか、わかっていらっしゃるのでしょうか。
「…帰ったら、他国に宣伝する方法を、考えてみます」
「お手伝いします、殿下」
私は必死にいつも通りの笑顔を貼り付けました。
どうか、この想いに気づかれませんように。
そう、祈りながら。
「少し歩きますか」
「はい」
ホルガーさまは自然に手を出してくださいます。
足元を心配してくださっているのでしょう。
他意はないはずです。
しかし、今の私には、どうしてもその手を握ることができませんでした。
「大丈夫ですわ、ホルガーさま。気をつけて歩きますから」
そう言えば、彼は一瞬ぽかんとした後、困ったように笑われました。
「ははは…そう、ですよね。失礼しました」
差し出された手で、後ろ頭をかき上げられます。
「では、足元が悪い所は、お知らせしますね」
そうして、私たちは、湖畔をそぞろ歩きました。
日が徐々に登り始め、右手の湖面がいっそう美しい青色に染まっていきます。
ホルガーさまは、いつも通りでした。
たまに小鳥を見つけては、鳴き真似をして楽しませてくださったり、草花の名前を教えてくださったり。
それなのに私は、先程の態度ばかりが頭を巡り、相槌さえ上の空になってしまいます。
(ホルガーさま、驚かれていました)
差し出された手を断るなんて、淑女として、あってはならぬことです。
まして相手が夫であるなら尚のこと。
(私はずっと、こんなふうに彼を傷つけてしまうのでしょうか)
涙が出そうでした。
何も望まず、ただ仲の良い夫婦として暮らしていけば良いだけなのに。
私には、それさえできそうにありません。
本当は、わかっているのです。
「政略結婚だから」なんて予防線を張るのは、馬鹿馬鹿しいと。
起こってもいない事柄に怯え、今ある幸せを手放すなんて、愚かなことだと。
それでも、どうしても考えずにはいられません。
いつか彼を手放さなければならない、そのときを。
美しくもない。
賢くもない。
後ろ盾もない。
私にあるのは、王族としての血統と、持参金だけ。
そう遠くない未来、彼の前には、美しく、教養豊かで、自信に満ちた方がたくさん現れるでしょう。
それでも、誠実なホルガーさまはきっと浮気も離縁もされません。何事もなかったかのように、私との生活を続けていくはずです。
そして、私は、それが耐えられないのです。
義理やお情けでともにいていただくなんて。
この恋が大きく育てば育つほど、私は苦しくなるでしょう。
彼の向けてくれる親愛の情にさえ、怒りを感じるようになるかもしれません。
(…その前に、私は、この感情を消さないと)
理性ある、妻にならなければ。
私は、暗い考えを追い払うように駆け出し、ホルガーさまを追い抜きました。
「殿下、危ないですよ!どうされました!?」
突然のことに驚かれたのでしょう。
ホルガーさまの慌てた声が背中に掛けられます。
私は、はしゃいでいるように見える笑顔を貼り付けて、振り返りました。
湖を背に、ホルガーさまに笑いかけます。
「ホルガーさま!私は、あなたの良き妻になります!」
ぽかんとするホルガーさまに、私はまた笑いかけました。
「完璧な妻になりますから!」
だから、どうか……女性としての魅力は無くとも、妻として、これ以上の娘はいないと信じてください。
私を、あなたにとって必要な人物にしてください。
認めざるを得ません。
私は、どうしようもなく彼の無二なりたかったのです。
「殿下…!」
私の頬を一筋の涙が転がり落ちます。
それを見て、ホルガーさまは焦ったように一歩を踏み出されました。
そのとき、
――ザバァア!!
背後から、地面が震えるような水音がしました。
「殿下!!」
ひどく取り乱したホルガーさまが、こちらへ駆けて来られます。
一瞬の出来事でした。
彼が、こちらへ手を伸ばしたその瞬間、私は背後から濁流に飲み込まれました。
全身が水に包み込まれ、そのまま湖の底へと沈んでいきます。
水を隔てて見るホルガーさまは、何かを叫びながら、泣いているように見えました。




