第三十一話 ヘレンはどこに
ひんやりとした明け方の空気、控えめな小鳥のさえずり。
紫色の朝焼けに目を細めながら、老人は馬車に乗ったルコットとアサト、それから馬上のホルガーに、今一度問いかけた。
「本当に孫娘を…ヘレンを連れ帰ってくださるのですか?」
ホルガーは力強く頷き、ルコットもまた、真剣な面持ちで口を開く。
「はい、お任せください。きっとこの子が導いてくれますわ」
その手には、あの灰色の髪の人形、サラが抱かれていた。
「昨夜あの映像を見せてくれたことには、何か理由があるはずですから」
村長もまた神妙に頷く。
「…確かに、これまでこんなことはありませんでしたが……ご迷惑でしょう」
「とんでもありません。捜索はアルシラで用を済ませてからになりますが、必ずお連れします」
飾り気のない言葉であったが、ホルガーの目は何よりも雄弁にヘレンの身を案じていた。
老人の目に涙が滲む。
「…かたじけない。有難い。私は村長としてこの村を離れられない。そうでなくとも足が言うことを聞かない」
「私たちもお孫さんのことが気にかかるだけですから、どうか気にしないでください」
アサトが宥めると、老人はようやく頭をあげた。
「善良な方々よ。恩に着ます」
馬車が村を走り出てなお、彼はいつまでも、遥か北の方角を見つめ続けていた。
* * *
アルシラとは、フレイローズ国最北に位置する、北の砦である。
北の大国シルヴァ国と、スメラギ山脈を挟んで睨み合い、長年拮抗状態を保ってきた。
そのため、民の間でも「北の不毛の地」というイメージが定着している。
しかしその実、領土が東西南北に広いため、領内の気候や文化は多様であった。
王都にほど近い南部は、真冬であってもひどい積雪は滅多になく、湿度が低いため、国内一農業が盛んな地域である。
また、大陸一の面積を誇るサフラ湖も知られた存在であった。
「そして今回我々が向かっているのは、アルシラの中でも特に南端に位置する、シュトラという街です。会談用の迎賓館があるので、アルシラでの会議は大抵そこで行われます」
馬車で揺られながら、ルコットはまだ見ぬアルシラに想いを馳せていた。
畑に実る野菜に、巨大な湖。
きっと美しい土地なのだろう。
しかし、何より重要なのは、そこが最北の地であることだ。
「もし、ヘレンさんが国内にいらっしゃるとしたら、やはりアルシラのどこかということになるでしょうか?」
「そうでしょうね。この国であの規模の吹雪が吹くのは、アルシラくらいでしょう」
ホルガーが請け合うと、ルコットは手元の人形をぎゅっと握りしめた。
「国外の可能性は低いと思いますよ」
馬車台から、アサトが思案げに口を挟む。
「スメラギ山脈を越えれば、地表の雪が溶けることはまずありません。気候を鑑みればアルシラの北部でまず間違いないかと」
驚くルコットに、ホルガーが目配せする。
「アサトは頭脳派なんです。剣も大したものですが」
「いいえ、まだまだです。もっと強くなりますよ」
嫌味のない爽やかな笑顔に、迷いのない言葉。
宣言通り、彼はこの先もっともっと強くなるのだろう。そんな予感が確かにした。
「ところで大将」
周囲に感知されない、軍人特有の囁き声で、アサトが呼びかける。
ルコットに聞かれてはまずい話かと、ホルガーもまた声をひそめた。
「何だ?」
「…ルコットさんとのデートコースは、きちんと考えてあるんですか?」
からかっているわけではなく、真剣に心配しているのだろう。
彼の生真面目さは、ときにどんな無礼な部下よりもたちが悪い。
「…今晩アルシラに到着してから食事でも…と思っている。それから、明日会議前に湖を案内できれば…と」
気恥ずかしさから言い淀んでしまったが、それでもアサトはどこか満足げに「心得ました」と頷いた。
「これでフリッツ大佐に顔向けできます」
「…そんなことだろうと思った」
「お二人にきちんと休んでいただくことが、私の任務でもありますから」
「…そうなのか?」
「そうですよ!お二人があんまり亀の歩みだから、皆心配してるんです!」
返す言葉もないとホルガーは眉間に皺を寄せた。
結婚後、怒涛のような日々を過ごす中で、屋敷のことは全てルコットに任せきりになっていた。
その間、なるべく寂しい思いはさせないようにと努めてはいたが、作れた時間はせいぜい一日一時間程度。
これが世の女性であれば、とっくに見限られていてもおかしくはない。
彼女の優しさに甘えている自覚は十二分にあった。
「せっかく一日中一緒に過ごせるんですから、もっと積極的にいきましょう!」
ホルガーの頬がじわりと染まる。
それから、視線がちらりと馬車内のルコットへと移った。
彼女は、木々を飛び移るリスに目を奪われているようで、時折車内へと吹き込む風が、ふわふわと髪をそよがせている。
(まるで一枚の絵のようだ)
ホルガーは旅の眩しい一情景として彼女の姿を焼き付けたのち、咳払いをした。
「…殿下にはスノウ殿下から仰せつかった役割がある。そして俺には、そんな殿下をお助けする使命がある」
アサトはため息とともに天を仰いだ。
「大将、そもそもルコットさんはもう殿下ではないんですよ。王族からは抜けられたんですから」
「それは、分かっているが…何とお呼びすれば良いか…」
「何照れてるんですか」
後にも先にも、アサトがこれほど呆れた顔をすることはないだろう。
ホルガーは生唾を飲み込み、この先は慎重に言葉を吟味することを誓った。
「確かに、殿下は王族から抜けられた身だが、それでも何というか神聖なんだ……軽々しく触れて良い方ではない…」
「…まさかこんな拗らせ方をしているとは」
アサトの呟きはホルガーの耳には入らなかったが、場の空気が数度下がったことだけは分かった。
「アサト、何故怒るんだ」
「…怒ってませんよ。今回の任務は手強そうだと思っているだけです」
ホルガーは眉尻を下げ、「すまない」と謝る。
よく分からないが、この若者が行く末を案じてくれていることだけは伝わってきた。
アサトはといえば、頭痛をほぐすようにこめかみを揉むと、もう一度大きなため息をついた。
それから、幾分穏やかになった声色で「いいですよ」と告げた。
その顔には、親愛のこもった苦笑が浮かんでいた。
「不器用なのは大将の長所でもありますから」
(幸い、ルコットさんは気の長い方のようですし)
そして幸い、アサトは世話焼きな性質だった。
涼しい風を額に受ける。
落ち葉の香りはどこか頭をすっきりとさせた。
(とりあえず、今日の昼食はお二人を隣同士の席にしよう)
長丁場になることを覚悟しつつ、そんな二人を見守るのも悪くはないとアサトは思い始めていた。
その口元が緩んでいることには、本人でさえ、気づいていない。




