第三十話 チルラ家の日々
真白の雪原を疾走する一台の乗合馬車。
舞い上がる粉雪が、立て付けの悪い窓から冷たく吹き込んでいる。
悪天候故か、向かう先が寂しい土地なのか、客は身を寄せ合う一組の男女だけだった。
女が小さく身震いした。
「寒いか?サラ」
「いいえ、レン。寒く無いわ」
薄い布一枚を二人で頭から被る。
喋るたびに白い息が上がった。
それでも彼女は心から微笑んでいた。
「だから、もう後悔していないか聞くのはやめてね」
男はぐっと食いしばると、少し視線を落とす。
「私はあなたの傍にいたい。お父さまに迷惑もかけたくない。こうするのが、一番の方法なの」
ね?と笑うサラを、レンルートはいっそう強く抱きしめた。
「…絶対幸せにする」
馬車は走る。
何もない雪の世界をただ走る。
北へ、北へと。
* * *
再び室内が眩い光に包まれる。
場面が切り替わったのか、次に映し出されたのは、雪に包まれた丘の上だった。
吹雪の中にひっそりと佇む小屋のような家。
窓からは、ぼんやりと灯りが溢れていた。
そこへ、丘の麓から、マントに身を包んだ男が登って来る。
手には荷物を乗せたソリを引いていた。
ずるずると引き摺られるそれは、重みで雪に沈みかけながら、来た道に跡を残している。
そのとき、小屋の扉が開き、一人の女が外へと飛び出した。
「…レン!お帰りなさい!」
声は突風にかき消されたが、男は気づいたようだった。
心なしか、歩く速度が上がる。
外気が彼女の髪を凍らせ、風が粗末なスカートをはためかせたが、サラはその場から動かなかった。
とうとう、彼が小屋に至る。
ぽんぽんと無言で撫でられた頭を、彼女は幸せそうに押さえた。
小屋の様子は、簡素というより他なかった。
簡単な炊事場に、小さなベッド、テーブルが一つに椅子が二つ。
いずれも新しく買い求めた品でないことだけは確かだ。
男がソリの覆い布を剥がすと、中からは、干し肉やチーズ、古びた衣類が数着、薪や布に至るまで、様々なものが積まれていた。
女はそれを見て心底驚いた顔をする。
「レン、今日は大漁ね!これ、一体どうしたの?」
フードを外したレンルートは、タオルでサラの髪を包みながら答えた。
「トムの爺さんが持ってけと」
「あら、今日はトムさん村にいるのね」
ぎこちなく微笑み、男の頬を指で撫でる。
「…この傷、また石でも投げられた?」
「かすり傷だ」
女は僅かに泣きそうな顔をしたが、「そう」と呟いただけだった。
「…ねぇ、レン。どうして皆魔術師を怖がるのかしら」
レンルートは低く笑った。
「君みたいな奴の方がおかしいんだ。……僕は、君に出会えて幸運だった」
出会いを懐かしむように閉じられた目。
サラもまた、照れたように笑った。
「さぁ、それじゃあお夕飯にしましょう」
「僕はいい。トム爺にも、身重の嫁さんにたらふく食べさせろと言われている。それに僕は、食べなくとも死なない類の魔術師だ」
「そういう問題ではないの!ほら、早く席に着く!」
急かされたレンルートは、慌てて椅子に座る。
それを見届けて、サラは満足げにスープを温めに行った。
腰まである長い灰色の髪。
機嫌の良い鼻歌。
鍋の小気味好い音と、食欲をくすぐる香り。
「なぁ」
呼びかけると、彼女は振り向かないまま「なぁに?」と返事した。
「お腹の子、どっちだと思う」
サラは「どうかしら」と答えながら、くすくすと笑った。
「あなたはどっちだと思う?」
「僕は…女の子だと思う。君によく似た」
「それなら、きっとその通りになるわ」
彼女の歌に耳を傾けるように、レンルートは静かに目を閉じた。
* * *
再び、場面が移り変わる。
雪解けの道を、灰色の髪の女の子が、両親に手を引かれて歩いている。
そしてその小さな背中には、あの人形がおんぶ紐で結びつけられていた。
「とうさま、足が疲れたわ」
「頑張って。もう少しで村に着くよ」
「もう無理よ。歩けない」
レンルートは苦笑すると、口を尖らせる我が子を抱き上げた。
「良かったわね、ヘレン」
「かあさまより高い!」
満面の笑みではしゃぐ娘の頭を、サラは手を伸ばして撫でた。
ヘレンはくすぐったそうに身をよじる。
「村に着いたらクリスたちと遊ぶの!手紙に『待ちきれない』って書いてあったわ。とうさまとかあさまもお薬売りが終わったら一緒に遊びましょう?」
「夕方までに終わったらね」
レンルートは、風で乱れた娘の前髪をそっと整えた。
「ヘレンのおかげで、村の人たちが仕事をたくさんくれるようになったからな」
「皆とうさまのこと、真面目で丁寧な仕事をするって褒めてるわ。かあさまは美人で気立てが良いって」
「あらまぁ」
ヘレンは、顔を見合わせる両親に、誇らしげに胸を張った。
* * *
映像を見つめる老人の目から、細い涙が流れた。
乾いた唇が何かを呟こうと開かれる。
そのとき、穏やかだった風景が、暗転した。
暗闇の中。
黒い空には稲妻が走り、地響きのような低い音が絶え間なく足を揺らす。
遠く地平線が赤く焼けていた。
「いや!とおさま!かあさま!行かないで!」
マントで全身を隠した二人組に、縋り付くヘレン。
腫らした目に、赤くなった鼻、がらがらに枯れた声。
それでも涙は止まらなかった。
「お願い!置いて行かないで!ここにいて!お願い!」
「ヘレン……良い子にしていたら、いつか帰ってくるわ。それまで、クリスくんのお家でお留守番していてね」
「嘘よ!かあさまは嘘をつくとき私の目を見ないもの!」
二人は息を飲み、そのまま押し黙った。
それ以上、誤魔化す言葉は持ち得なかった。
「…でもね、ヘレン。村の人たちを助けなくちゃ」
「二人が居なくなったら、私はどうしたらいいの」
「聞いて、ヘレン。あの人形に、まじないをかけておいた。困ったときには必ず、誰かが助けに来てくれる」
「とうさまとかあさまじゃないといや!」
「…ごめんね」
サラは娘の手を離し、夫と並び立った。
「…ヘレン、大好きよ」
「いや!待って!かあさま!とうさま!」
レンルートの冷たかった瞳に、雫が浮かび、溢れた。
* * *
「…何という…あの子は、もう生きていないのか」
村長の呟きに、言葉を返せる者はなかった。
また場面が切り替わる。
今度は見たことのない家の、暖炉の前だった。
陽光が高い小さな窓から差し込んでいる。
そこに、煤だらけの少女がしゃがみこんでいた。
「ねぇサラ、とうさまは嘘つきね。助けなんてちっとも来ないじゃない」
母の名をつけた灰色の髪の人形に、悲しげに微笑む。
「…お前はかあさまの代わりなんでしょう?あぁ、私の味方はもう、お前だけよ」
荒れた手で、古ぼけた人形を撫でていると、階段をどしどしと降りる音がした。
「ヘレン!何してるんだい!夕飯の仕込みがまだだろう!まったく!タダ飯食らいが、何をぼんやりしてるんだい!」
丸々と肥えた女は、怒鳴り散らすだけ怒鳴り散らすと、勢いよく扉を閉めて去って行った。
けたたましく叩きつけられた戸に、ヘレンは苦笑する。
「……最後におばさまからご飯を食べさせてもらったのは、いつのことだったかしら」
自らの皮肉に、少女は自嘲げに眉を寄せた。




